市川学園100冊の本の紹介(マザー・テレサ)

マザー・テレサ ~インドで献身的な救済活動をして、ノーベル賞をもらった修道女~

吉武 佳一郞

「マザー」は指導的な修道女の敬称、「テレサ」は修道名。テレサは、1928年、マケドニア(当時オスマン・トルコ帝国)のスコピエのアルバニア人商人の子として生まれ、アグネス・ゴンジャ・ポヤジュ・テレサ(「花のつぼみ」の意)と名づけられました。テレサは9歳の時に父を亡くしましたが、12歳の頃にはすでに、将来インドで修道女として働く望みを持っていました。高校卒業後、神とともに生きていくことを決意してロレット修道会に加わり、1928年、18歳でカルカッタ(現コルカタ)に赴任しました。1929年から1947年までテレサはカルカッタのロレット修道会付属のマリア学院で地理と歴史の教師となり、1944年から校長に就任しました。裕福な家庭の子女の教育に当たりながらも、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が脳裏から離れませんでした。しかもこの頃のインドは対英独立運動の最中で、カルカッタでもヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立による宗教暴動が起こり、テレサは胸を痛めていました。

テレサの言葉によれば、運命の1946年9月10日、ダージリン行きの列車で瞑想中、「最も貧しい人々にまじって、貧しい人々のために一生をささげなさい」という神の声を聞いたそうです。この神の啓示の2年後、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が下り、テレサは修道院を出てカルカッタのスラム街の中へ入りました。彼女は質素なサリーを身にまとい、手始めにホームレスの子供たちを集めて街頭やスラムの一部屋で無料授業を行うようになりました。子供たちに読み書きを教え、栄養の行き届かぬ子供にミルクを与えるなど、貧しい人々とともに生きていく日々でしたが、その時に貧しい人に尽くすためには、自分も貧しくならなければならない、という信念を持ちました。やがてテレサのもとに聖マリア学院時代の教え子たちも共感してボランティアとして集まって活動に加わるようになり、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになりました。

最初、バチカンのカトリック教会上層部は彼女の活動に対する認可を与えなかったのですが、1950年にローマ教皇庁から創設の許可が下り、「神の愛の宣教者の会」が創設されました。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。会の憲章には「私たちは、物質的および精神的に貧しい人のなかのもっとも貧しい人の苦悩する姿をとられるイエスを愛し、イエスに仕えて、この人々が神の似姿を取り戻すことができるように働く」とあり、貧しい人々への献身的奉仕が使命とされています。それまでシスター・テレサと呼ばれていましたが、会の総長としてマザー・テレサと呼ばれるようになりました。その後、その会は急速に成長して世界中に500以上もでき、1965年にはバチカン直属の教団となりました。

1952年、インドの分離独立後、難民であふれるカルカッタのヒンドゥー教聖地カーリーガート寺院近くの巡礼宿泊所を提供されて、路上で死にかかっている人々を収容する施設「死を待つ人の家」を開きました。最初はヒンドゥー教徒をキリスト教徒に改宗させるのが目的であるとか、カーリーガート寺院を汚すものだとする非難もありましたが、テレサの献身的な世話を見て、逆に評価は高まる一方でした。「神の愛の宣教者会」の活動には、インド国内だけでなく、海外からも支援の手が差しのべられました。孤児院「シシュパワン」、精神病患者施設「プレムダン」、ハンセン病療養施設「シャンティナガル」など、社会に見捨てられた人びとの世話をする100余りの収容施設が生まれ、各国からのシスターが働くようになりました。海外からも同修道会を招く声が強まり、世界各地で500を超す修道院を持つに至りました。老齢にもかかわらず、マザー・テレサは積極的に世界各地を訪問し、そのひたむきな生き方が宗教を超える共鳴を呼びました。日本にも3度来日し、「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」と述べています。 

マザー・テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていきました。1969年、マルコム・マゲッリッジ(米)が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』と同名の書籍によって、テレサの活動は全世界で知られるようになりました。テレサの活動は高く評価され、マグサイサイ賞(1962年)をはじめとして、「教皇ヨハネ23世平和章」(1971年)の最初の受章者となり、ケネディー賞(1971年)、シュバイツァー国際賞(1975年)、ノーベル平和賞(1979年)など多くの賞を受け、アメリカ合衆国名誉市民権や多くの大学の名誉学位も受けました。ノーベル平和賞を贈られた時、テレサは「私は受賞者に値する人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます」と、喜びを語りました。テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断りましたが、賞金192,000ドルはカルカッタの貧しい人々のために受け取りました。インタビューで「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられた時テレサは、「家に帰って家族を大切にしてあげて下さい」と答えただけでした。

1997年、マザー・テレサはマラリアにかかって心臓も悪化し、「もう息ができないわ」という最後の言葉を残して87歳の生涯を終えました。テレサが亡くなった時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123か国の610箇所で活動を行っていました。宗派を問わずに全ての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は国葬で盛大に行われましたが、インドの大統領や首相以外で国葬されたのはテレサだけでした。インドの人々だけでなく、世界の人々もテレサの偉大な働きを思って、テレサの死を追悼しました。

マザー・テレサの言葉

  • “貧しい人が亡くなるときは、愛してくれる人の腕のなかであってほしい。貧しい人には、自分のことを気づかってくれる人の瞳を見ながら、最期のときを迎えてもらいたいのです”  
  • “女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物-それが母性なのです””子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう”(北京世界女性会議へ宛てた メッセージ)
  • “愛の反対は憎しみではなく、無関心”   
  • “銃や砲弾が世界を支配してはならない。大切なのは愛である”

センター所蔵の「 マザー・テレサ 」の本

  • 沖 守弘 『マザー・テレサ~あふれる愛~』 講談社 分類197-マ
  • G・ゴルレ、J・バルビエ 『マザー・テレサ 愛の旅立ち』 日本教文社 分類198-テ
  • 寮 美千子 『マザー・テレサへの旅~ボランティアってだれのため?~』 学習研究社 分類369-リ
  • 川西和男「マザー・テレサ」(樺山紘一他編 『人物20世紀』 学習研究社所収) 分類209-ジ