市川学園100冊の本の紹介(植村直己)

植村直己~5大陸の最高峰と極地に挑み、「世界の冒険家」と呼ばれた男~  

                                                     吉武 佳一郎  

植村直己は、昭和16年(1941)2月12日、兵庫県城崎郡日高町(現在の豊岡市)の植村藤治郎の末っ子として生れた。学校行事で蘇武岳に登ったのを契機に、少年の頃から富士山などを登っていた。高校時代は池の鯉を友人とストーブで焼いて食べたり、ストーブの煙突に雑巾をつめて教室を煙だらけにして授業を中止させたりするいたずらもした。昭和35年に明治大学農学部に入学して山岳部に入り、本格的に登山を始めた。植村は背が低く不器用で、入部当初はよく転んで「ドングリ」のあだ名がついたように、登山の資質には恵まれていなかったが、少しでも仲間と肩を並べたいと、密かに登山を繰り返した結果、頭角を現してサブリーダーにまでなった。仲間にアラスカ氷河の山歩きの体験話を聞いた植村は、ライバル意識を燃やして卒業後は外国の山に登ることを決心し、昭和39年、両親や友人の反対を押し切って、アルバイトで貯めた4万円(110ドル)を持って移民船「あるぜんちな丸」に乗り込みロサンゼルスへ向かった。カリフォルニアの農場で3ヶ月近くブドウもぎの仕事をして1,000ドルを手に入れたが、移民調査官に不法就労で捕まってしまった。観光ビザで入国していた植村は、アメリカでの労働は禁止されていたのだ。英語を話せないふりをしていると、日系2世の通訳が現れたので、「何としてもアルプスに登りたい。そのために賃金の高いアメリカで資金稼ぎに働いたのだ。」、と熱く語ると、同情した通訳の温情でなんとか強制送還を免れた。

さらにフランスに渡り、アルプス山麓のスキー場で資金稼ぎをし、シャモニーでモンブラン単独登攀(とうはん)を企てたが、クレバスに落ちて断念した。その後、冬季オリンピック滑降金メダリストのジャン・ビュアルネに雇われて資金稼ぎをしながら、モルジンヌスキー場を登山活動の拠点とした。昭和40年、明大ヒマラヤ隊に飛び入り参加し、ゴジュンバ・カンⅡ峰(7646m)の初登頂者となった。また、昭和41年にはモンブラン(4807m)単独登頂とアフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)単独登頂を成し遂げ、翌年には南米最高峰のアコンカグア(6960m)の単独登頂に成功した。この後、アマゾン川の筏(いかだ)下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念し、4年5ヶ月ぶりに日本に帰国した。昭和45年、日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定した。植村は自己負担金を用意できず、荷揚げ・ルート工作要員として参加したが、抜群の体力が認められて第1次アタック隊に選ばれ、松浦輝夫と共にエベレスト(8848m)の日本人初登頂を成し遂げた。同年8月には北米のマッキンリー(6194m)に挑戦して単独登頂に成功し、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。昭和46年4月には、イギリスのBBC主催のエベレスト国際隊に参加してネパール側南壁を制覇(せいは)して再びエベレスト登頂をめざしたが、インド隊員の遭難以降、各国の利害関係が表面化して失敗に終わった。この頃から植村は南極横断への夢を抱き始め、同年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、同距離の稚内~鹿児島間の国内縦断を徒歩51日間で実現した。そして昭和51年には、ヨーロッパ最高峰エルブルース(5642m)を登頂した。

以後は北極点到達、グリーンランド縦断と、「垂直から水平」の冒険にそのチャレンジは形を変えてゆくが、それは念願の南極冒険行きを大きな目標にすえたものであり、マッキンリーは通過点であるはずだった。単独行に傾倒した植村の特徴は、冒険する現地で長期間を過ごす生活馴化から始めるという点にあった。夢の実現のため、特に犬橇(ぞり)行に先立つ約五ヶ月はグリーンランド北部で極地探検に備えてイヌイットと共同生活し、大嫌いな生肉を食べる訓練をし、極地での犬橇・狩り・釣りなどの生存術を学んだ。昭和48年にグリーンランド北西岸3000kmを犬橇(ぞり)で走破し、昭和53年、世界初の犬橇による12000kmの単独北極点到達に成功し、さらに、犬橇単独によるグリーンランド初縦断にも成功した。世界的な名声と評価を得たが、スポンサーの意向で食料や橇や犬などをヘリコプターや飛行機で補給をしたことに一部で疑問と批判が出された。

昭和55年、エベレストの厳冬期登頂を目指して植村を隊長とする日本隊が編成されたが、隊員の突然の事故死と悪天候のため、登頂は断念せざるをえなくなり、また昭和57年には、アルゼンチン軍の協力を得て進めていた南極横断の夢も、フォークランド紛争の勃発(ぼっぱつ)によって、むなしく中止した。この2度の冒険の失敗で初心に戻る決心をした植村は、昭和59年2月12日、マッキンリーの世界初の厳冬期単独初登頂に成功した。この日は奇しくも植村の誕生日で、この北米最高峰は、昭和45年夏に植村が初の単独登頂を果たした山であった。13日から悪天候になって下山が心配されたが、登頂を伝える交信後、消息を絶った。16日に手を振る植村と思われる人物を小型飛行機から確認したという情報(最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認の可能性大)が入ったが、2月13日ごろに遭難死したと考えられる(遺体未発見のため詳細不明)。捜索で、植村が掘った雪洞に残されていた日記には「何が何でもマッキンリー、登るぞ」で終わっていた。南極への夢を忘れられない植村にとってマッキンリー冬期単独登頂は、極地の冬山登攀(とうはん)を体験し、実績を上げることに主眼をおいたが、南極横断のスポンサー探しが目的だとも伝えられている。植村が頂上に残した日章旗は、4月に明大OB隊によって発見された。遭難の直接の原因かどうか定かではないが、植村が初めて使用した新型ブーツと新素材の衣類の誤った重ね着が植村の体力をかなり滞粍させたことは間違いない。つねに装備を慎重に選び、経験こそ最大の武器と言っていた植村らしくない準備であった。植村の残した有名な言葉は、「いつも前進があるだけ」だったが、それは大自然に身を投じ続けていなければ生きていけない冒険者としての彼の生き様をよく表している。彼は20世紀最高の冒険家として今も内外で讃えられつづけている。国民栄誉賞、英パーラー(勇敢)賞などを受賞。

【センター所蔵の「 植村直己 」の本】
◇植村直己『青春を山に賭けて』(毎日新聞社,1971年)分類786-ウ
◇同『極北に駆ける』(文藝春秋,1974年)分類G-7490-ウ
◇同『北極圏一万二千キロ』文藝春秋,1976年)分類G-790-ウ
◇同『冒険』(小学館文庫,1998年)分類小914-6ウ

市川学園100冊の本  中学   ジャンル:外国文学 >  

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」 福田 恆存(ふくだつねあり)訳 新潮文庫 分類 小933 

                                                      中田 真人        

年老いた漁師サンチャゴは、メキシコ湾流に小舟を浮かべて、一人漁をしていた。84日間一匹の魚も釣れないという最悪の日々のあと、とうとう釣り針にかかったのは、大型のメカジキだった。それから4日間も昼夜を問わず、針にかかったメカジキとの、互いの生死をかけた壮絶な闘いが始まる。闘いに勝利したあと、サンチャゴは小舟と同じくらいの大きさのメカジキを、舳先(へさき)(艫(とも))にくくりつけ、ハバナの漁港へむかう。しかし、今度はその獲物を狙う、どう猛なサメたちとの絶望的な闘いがまた始まる。サンチャゴの、自分自身を叱咤激励しながらでも、勝ち抜き、生き抜いていく、その精神力の強さ(と弱さ)が、単純明快でわかりやすく、感動的。読後、爽快な気持ちになること受け合いです。

アーネスト・ヘミングウェイErnest Miller Hemingway

1899年~1961年(米)。1954ノーベル賞受賞。
「日はまた昇る」(1926) 「武器よさらば」(1929) 「持つと持たざると」(1936) 「誰がために鐘は鳴る」(1940) 等の代表作の他、短編も多数。