市川学園100冊の本の紹介(マハトマ・ガンディー)

マハトマ・ガンディー ~「非暴力」主義で国民を反英闘争に結集させ、インドを独立に導いた人~     

吉武 佳一郎

 本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。1869年、インドのポールバンダル藩主国の宰相の末子として生まれた。19歳で法律を学ぶためにロンドンに留学し、4年で帰国したが、母国では弁護士の職がなく、1893年、イスラム商人の要請で一年契約で南アフリカに赴(おもむ)いた。その旅先で白人による人種差別を受け、その体験が22年間、南アフリカでインド人労働者の市民権を守る活動に従事させることになった。1914年、在住インド人の常時身分証携帯の法案を、非暴力不服従と呼ぶ非合法闘争で廃案に導いた。この運動中にアヒンサー(非暴力)、サティアーグラハ(真理をつかみとる)など彼独自の思想が形成された。また、不可触賤(ふかしょくせん)民(みん)の仕事である洗濯屋・床屋、便所清掃を自らやり始め、農場を買って貧しい生活に入り、断食もこの頃から始めた。また、ヒンズー法やイスラム法による婚姻を合法化させ、インド人年季労働者への課税を廃止させた。

 1914年に帰国したガンディーは、「サティアーグラハ闘争」の拠点と共同生活の場として、アーシエラム(修道場)をひらいた。ガンディーは、トルストイ提唱の消極的抵抗をより組織的・大衆的・行動的なサティアーグラハ闘争に発展させた。さまざまな社会問題を3年間調査した後、北ビハールの小作人を組織して地主の収奪から守る闘争を指導し、農民代表として地主と省政府代表と交渉し、藍の収穫料の25%を小作人に返済させた。これがインド農民と戦う第一歩となり、インドでのサティアーグラハ闘争の初勝利となった。

 第1次大戦が起こるとイギリスは、戦争に協力すればインドに自治を与える約束をした。大戦中のインドは、兵士150万人、食糧物資など1億4500万ポンドを負担し、戦死者3万6000人とその倍の負傷者をだしたが、戦後、イギリスは約束を守らなかったので、各地で反英闘争が起った。「市民的不服従」に呼応してガンディーは、まず、令状なしの逮捕と裁判なしの投獄を定めたローラツト法に反対して市場・工場・商店・タクシーなどを一斉休業するハルタール(ストライキ)を行い、また、400人以上が虐殺されたアムリットサル事件に対しては、公立学校や裁判所や地方選挙などへの非協力運動(ボイコット)で対抗し、さらに、外国製布のボイコット、地税不払い運動、禁酒運動や違法な塩生産など、「非暴力」だが、積極的に植民地法を犯す非合法闘争であるサティアーグラハ闘争を展開した。1930年の「塩の行進」は、数千人が24日間380㎞を歩き通して海岸に達して違法な塩を生産し、これを契機に運動は全インドに広がり6万人以上の逮捕者を出した。これらの闘争の指導を通じてガンディーは、インドのあらゆる階級・階層の人々を反英闘争に結集し、また、民族資本家たちの支持も得た。そして、会議派内の保守派と急進派を統合して展開された彼の運動は世界の注目を集め、イギリス植民地当局をしばしば追い詰めた。

 彼の活動は、インドの政治的独立だけでなかった。カーストから除外され差別された「不可触賤民」をハリジャン(神の子)と呼んでその解放に取り組むとともにイギリス製紡織布を買わず、自らチャルカという紡車を手まわして布を織るカーディ(手織綿布)運動などを展開した。インド社会全体の生活向上のために、輸入品や工業製品に依存することなく、日常生活に必要な品を農村で作りだせるように、基礎教育や国語としてのヒンディ一語の普及等、農村自立のためのさまざまな試みである「建設的プログラム」をつづけたのである。紡車で糸を引き、シャツも帽子もすて、手織りの白い腰布をまとう丸めがねのガンディーの姿は、3億のインド民衆の独立の悲願の象徴となり、20歳のネルーは、アムリットサル事件を機に、ガンディ一にしたがってインド独立のために生涯をささげる決意をかため、ガンディーもまた、後に「私の言葉を語り継ぐのはネルーだ」と語り、ネールを自分の後継者に指名した。

 ガンディーの戦術の一つは断食で、国民会議派のヒンドゥー教徒と回教徒が派閥抗争の時、21日間の断食を決行して和解させ、その後6年間、逮捕や「死に至る断食」をくり返し、インド統治法にもとづく1937年の州議会選挙で国民会議派を圧勝させた。

 第2次大戦が始まるとガンディーは、1942年、非協力運動を提案し、会議派は‘インドを立ち去れ’決議を採択した。その直後ガンディーら会議派の主導者が投獄されると、インド全土に暴動が巻き起こった。ガンディーは、この時を含め生涯6年近くを獄中で過ごしたが、彼は植民地政府による投獄と自己の決断による断食を繰り返しながら、独立運動の幅を広げ、インド社会の最下層民まで参加できる環境をつくっていった。

 1947年、国民会議派がインドの分離独立に同意したことに失望したガンディーは、8月15日の独立祝賀式典出席を拒否し、1948年にはインド統一を祈念して最後の断食をデリーで始めたが、彼の祈りの最中、狂信的ヒンドゥー至上主義者の凶弾に倒れた。

 ガンディーは、タゴールの名づけた「マハトマ(偉大なる魂)」や「バープー(父)」などと敬愛をこめて呼ばれ、今なお尊敬されている。彼の西欧近代の思想批判はロマン・ロランやトルストイなど世界的に支持され、アジアの平和運動への多大な影響を与えた。

【参考文献】
◇「ガンジーの戦い~インドの独立運動~」(大江一道・山崎利男『物語 世界史の旅』山川出版社

【センター所蔵の「ガンジー」関連の本】
◇ 坂本徳松『ガンジー』清水書院(センチュリ=ブックス)230 B.3-ナ
◇ J.イートン作・高杉一郎訳『ガンジー伝』(岩波少年文庫)B.2-ガ
◇ ジャワハルラル・ガンジー著『マハトマ・ガンジー』朝日新聞社 B.2-ガ
◇ K.クリパラーニー『<ガンジー語録>ナ抵抗するな・屈服するな』朝日新聞社 B.2-ガ

市川学園「100冊の本」 ジャンル: 高校…思想・哲学・心理

『自 省 録』 マルクス・アウレリュウス・アントニヌス著 神谷 美恵子訳  岩波文庫

 19世紀英国の歴史家ギボンが、『ローマ帝国衰亡史』の中で、「人類が最も幸福であった時代」と評したことで名高い、五賢帝時代の皇帝の一人、マルクス・アウレリュウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)の著書。

 激務の皇帝の座にあって、哲学を求め、もし哲学がなかったら、人道もないし、善悪もないとし、わずかな時間の合間を縫って、静かに自己と対話し、自らの思索の跡を書き綴り、実践していった傑出した人物。

 『自省録』の冒頭、まず、これまで自分を育ててくれた親、教師一人一人の名前を挙げて感謝する。恩を知ってこそ、人間として一人前といえると言っている。最高の権力者は、かくも謙虚になれるものか。約2000年以上の前の著作がいまだに読まれ続ける理由は、古来変らない、その人間としての変らない精神性の高さにあると思う。

 「偉人伝」は第3者が調べ上げて書き記すが、この書は精神の軌跡を赤裸に語り、深い感銘を受ける。現在の政治家はどうか・・・?                         

<担当  中田 真人>