市川学園100冊の本の紹介(夏目漱石)

夏目漱石~人間の心の葛藤を追求しつづけた日本の文豪~

                吉武 佳一郞

 本名金之助。1867年に江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町)に夏目小兵衛直克の末子として生まれた直後に里子に出されたが、すぐに連れ戻された。やがて他家に養子に出されたが、養父母が不和になったため、7歳で再び生家に戻った。この「捨てられた子」という幼年体験が心の傷となって彼の作品に影響している。1879年、東京府立第一中学校(日比谷高校)に入学したが、実母の死のショックで中退し、二松学舎に転校して漢文を学んだ。その後、成立学舎で英語を勉強し、1884年に大学予備門予科(東京大学教養学部)に、1890年には帝国大学文科大学(東京大学文学部)に入学し、英文学を学んだ。この頃、同級生の正岡子規に俳句の手ほどきを受け、はじめて漱石の号を用いた。1893年大学卒業後、東京専門学校(早稲田大学)と東京高等師範学校(東京教育大学)の講師となったが、翌年、神経衰弱になったため、禅の修行などをしている。1895年、愛媛県立松山中学校に英語教師として赴任。その時下宿に一時同居した子規の影響で俳句に熱中し、俳壇にも登場した。『坊っちゃん』には、松山中学校での体験が面白おかしく描かれている。翌年、熊本第五高等学校に転任し、中根鏡子と結婚した。1900年秋、英語研究のために文部省留学生としてロンドンに留学した。この留学は、漱石に大きな転機となり、英国と日本、東洋と西洋とを比較し、その落差を認めるとともに、日本を外から眺めることで、自己本位の立場を確立することになったが、やがて理論的な「文学論」の著述をめざして引きこもりになったため、発狂の噂も流れた。1903年の帰国後、第一高等学校(東京大学教養学部)教授と帝国大学文科大学の講師となった。

 漱石は、東洋の伝統的な精神と英文学のパトス(感情)との矛盾から、日本人が西洋文学を本当に理解できるのだろうかと悩み、しだいに教師生活に嫌悪を覚えるようになった。また、妻との不和や養父母との金銭上のトラブルで心労が重なり、学生時代からの神経衰弱が高じて、強度の発作に悩むことも多かった。そうした暗い心情をはき出して書いた『吾輩は猫である』は、主人公の猫が人間を批評するという奇抜な着想と諷刺と軽妙洒脱な作風で評判となった。『草枕』では画家が日常生活を逃れて趣味の世界に生きることを肯定的に描き、彼自身も小説家としての自覚を深め、現実と正面から対決する文学を目ざした。

 1907年、作家として生きる自信がついたのか、一切の教職をやめて朝日新聞社に入社した。入社第一作の『虞美人草』は、自我の強い男女と道義心の強い男女とを対照させ、道義を人生の第一義に置く漱石の考えを示した。また、この作品前後から日本の近代社会にひそむ矛盾や葛藤を正面から描き出そうとする作風に変わった。また、当時のインテリ青年の思考や生活を描いた『三四郎』は、多くの読者の支持を得た。さらに『それから』と『門』の三部作に発展し、愛をめぐる人間心理の明暗を執拗に追求するテーマを開くきっかけとなり、同時代の文明への懐疑と知識人の運命の洞察が漱石文学の原点となっている。

 1910年、胃潰瘍で入院し、その後、修善寺に転地療養したが、それが悪かったのか、翌年、大量に吐血して一時危篤状態(「修善寺の大患」)となる。この「三十分の死」を経験した漱石は、「死すべき者」としての人間認識をさらに深め、自己中心への批判はいっそう徹底していった。この入院中、文部大臣より文学博士の学位を授与されたが、辞退している。

 1912年、人間の孤独の問題を追求した『彼岸過迄』と『行人』を発表した。また漱石は、明治天皇の死去と乃木希典の殉死に大きな感動を受け、1914年、人間の孤独を、明治の終焉を迎えた知識人の心情と重ね合わせて『こころ』を書いた。翌年、自己自身と周囲とをみつめた自伝小説『道草』を書き、従来の一面的な視点から複眼的視点で人間の実在に迫ろうとした。さらに漱石は、1916年から日常のさまざまな人間関係にはらむ利害と愛憎など、ぞっとするような人間の生き様を執拗に追いつづけた一大長篇の『明暗』を書き始めたが、胃潰瘍の悪化による作者の死によって未完に終わった。享年50歳。

 漱石は長編小説のほかに短編や漢詩もあり、俳句(三千余句)や随筆も残した。漱石は門下生を毎週「木曜会」に招き、文学論や人生論を交わした。こうして築かれた漱石山脈(小官豊隆・森田草平・鈴木三重吉・寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成・高浜虚子・内田百閒・野上弥生子・芥川龍之介など)は、日本のリベラリズムを維持・向上させていく役割を果たした。

 漱石が魯迅や姜尚中・半藤一利などの著名人に尊敬されたのは、20世紀初頭で稀にみる東西両洋の知性と感性を備えた知識人であり、作家だったからである。当時の文壇は自然主義の全盛期であったが、漱石の前期作品は、森鴎外とともに、自然主義に批判的な立場から大きな潮流をつくり、彼の東洋的な趣味と英文学のもっている気品とが結合し、最高の教養を思わせる知的な内容の文学を生み出している。

 しかし注目すべきは、明治文学の総決算の形で現れた「行人」以後の大正期の作品で、大正の知識階級の文学の基礎をきづくとともに、近代知識人の人生哲学を遺憾なく発揮することに成功している。また、晩年の漱石は、自我を捨てて自分の生き方を天の意志に任せるという、彼が理想としていた「則天去私」の境地に達していたと思われ、それを描こうとした『明暗』は、作者の死によって、未完のままである。

【第三教育センター所蔵の「夏目漱石」関連の本】
▽西本鶏介『夏目漱石』講談社火の鳥伝記文庫910.28-ナ 
▽三田村信行『夏目漱石』偕成社910.28-ナ
▽江藤淳『漱石とその時代 第一部~第三部』新潮選書910.28-ナ1~3
▽江藤淳『夏目漱石』角川文庫 小910.28-ナ 
▽瀬沼茂樹『夏目淑石』東大出版会910.28-ナ
▽夏目鏡子『漱石の思い出』角川文庫 小910.28-ナ
▽夏目伸六『父 夏目漱石』角川文庫 小910.28-ナ
▽『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』910.28-ナ

【参考文献】
▽『漱石全集』全35巻・岩波書店
▽小官豊隆『夏目漱石 上・中・下』岩波新書
▽江藤淳著『決定版夏目漱石』新潮社、多数

市川学園「100冊の本」 ジャンル: < 高校: 日本文学 > 

夏目漱石著『こころ』1914刊行(岩波文庫)分類 910-ナ    

 夏目漱石の代表作となる長編小説。友情と恋愛の板ばさみになり、結局、友人より、恋人を選ぶ。そのため罪悪感に囚われた「先生」から、主人公へ送られた遺書を通して、明治時代のインテリ(高等遊民と称す)のエゴをえぐり出した問題作。人間としての倫理観との葛藤が表現されている。

 ミステリアスな「先生」との避暑地(鎌倉)での出会い。中段の「先生」と「私」の似たような境遇の与える親近感。後半、死の床にあった「私」の父をほったらかして、死を暗示した「先生」の手紙、それを受け取るやいなや、東京へ駆け戻る「私」。緊迫したストーリーに、ぐんぐんと引き込まれる。

 それほど女を見くびっていた私が…、私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。……本当の愛は宗教心とそう違ったものでない……。お嬢さんの事を考えると気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。

 新しい時代の「愛」と恋愛観。友情、倫理観。知識階級の意識。発表されると、当時の世間の風潮に一大ショックを与えたと言う。一読を勧めます。   

<担当 中田 真人>