市川学園100冊の本の紹介(福沢諭吉)

福沢諭吉~明治期の日本を代表する啓蒙(けいもう)思想家・教育者~

                吉武 佳一郞

 1834年12月12日、大坂の中津藩蔵屋敷内で、藩士福沢百助の次男として誕生。諭吉の名は、軽格ながら学問好きの父百助が、念願の本『上諭条例』を当日入手したのにちなんで付けられた。2歳の時、父と死別して中津へ帰り、兄三之助が家督を継ぎ、諭吉は中村術平の養子となった。『福翁自伝』に記された「私の為に門閥制度は親の敵でござる」は、父の不遇と下級武士・母子家庭の子として受けた自らの体験によっている。14歳から漢学を学んで頭角を現し、1854年、兄の勧めで長崎に蘭学修業に行き、翌年、大坂の緒方洪庵の適々斎塾に入門してわずか2年で塾頭となった。1856年、兄の死去で福沢の家督を継ぎ、1858年には藩命で江戸築地の中津藩屋敷内に蘭学塾を開いた。翌年、訪れた横浜でオランダ語が通ぜずショックを受けたが、英語を独習しはじめた。

 1860年、軍艦奉行の従者として咸臨丸で渡米し、日本人として最初にウェブスター辞書を持ち帰った。また、幕府の外国方に雇われて外交文書の翻訳に携わるとともに、蘭学塾を英学塾に切り替えた。1862年には幕府遣欧使節団の探索方として、一年間、仏英蘭独露葡6か国を歴訪した。1864年、渡航体験と語学力をかわれて幕臣となり、外国奉行翻訳方に就いた。1867年、軍艦受取委員の随員として米国東部諸州を視察して大量の原書を購入したが、幕政への批判と上司への反抗をとがめられ、帰国後謹慎処分を受けた。豊富な外遊体験から欧米諸国の制度や思想などを紹介した『西洋事情』は、20~25万部も売れ、諭吉の名声を高めた。

 諭吉は、1868年、幕臣も中津藩士もやめ、平民となって私塾経営に力を注ぐことを決意し、塾名を慶應義塾に改め、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。彰義隊の戦の際も諭吉が講義しつづけたエピソードは有名。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」の冒頭文で有名な『学問のすゝめ』は、1872年から4年間かけて出版された17編の小冊子だが、身分の上下、貧富の隔てなく学問が重要であること、西洋文明を学ぶことで「一身独立して一国独立」が得られることを説き、当時の人々の共感を呼んで340万部を超える大ベストセラーとなった。1873年、明六社に参加して『明六雑誌』で啓蒙活動をした。また、スピーチを重視し、三田演説会を開くとともに三田演説館を創設した。1875年刊行の『文明論之概略』は、諸国の文明を比較し、自由な交流と競合で国民の平和を求める心がめざめれば、日本が文明国として独立できると説いた。

 いっぽうで諭吉は、自由民権運動の高まりに対して、「政府は既に封建の大名をつぶし、士族を倒し」ており、これは「民権を重んじている証拠」だと政府を擁護するとともに、自分は自由民権論よりも権道(国権論)の立場を取ると宣言している。また、金玉均らの亡命を援助したりして朝鮮の独立党を支持していたが、1884年の甲申事変の失敗直後、アジア諸国を脱して日本も欧米列強側に立って植民地政策に臨むべきだきとする「脱亜論」を発表し、日清戦争を「文明と野蛮の戦い」だと開戦論を支持して献金運動に奔走し、その勝利には感涙にむせんだという。1878年に東京府会議員、1879年には西周・加藤弘之らと東京学士会院(現在の日本学士院)を創設して初代会長となり、翌年には社交倶楽部「交詢社」を結成した。1882年には「不偏不党」「官民調和」を掲げて日刊紙『時事新報』を創刊し、連日のように社説などの執筆にあたった。その関心は政治問題や時事問題・外交問題・社会問題・労働問題・皇室問題など多方面にわたるが、家族の基本を夫婦として男女の同権を説く女性論などに特徴があった。戦後は、労働問題・移民問題および植民地となった台湾経営問題などに関心を示した。

 晩年、『福翁自伝』などを著し、明治34年2月3日、脳溢血症により68歳で死去。諭吉の死をうけて衆議院は哀悼を決議したが、これは、諭吉の指導と感化をうけた「福沢山脈」の人々が政財界などで活躍し、思想や教育面に多大な貢献をした証だといえよう。

 1984年、一万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉にかわつた時、「近代化に貢献した啓蒙思想家として歓迎する」という大方の意見とともに、「彼の中国・朝鮮への蔑視や侵略的な言辞を考えると、国際感覚の欠如ではないか」との疑問が、新聞紙上などで話題になった。このように平等主義者・自由主義者・合理主義者・女性解放論者などの高い評価がある一方、西洋への崇拝、政府への妥協、一般民衆への非情、権道(国権)主義への転向を批判する考えもあり、諭吉の評価はさまざまであるが、諭吉が国民一人一人が自立して文明の担い手になるように、国民教育に尽力し、近代日本の進路を方向づける点で大きな功績を上げたことは否定できないだろう。

【第三教育センター所蔵の「福澤諭吉」関連の本】
◇松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書)121-マ 
◇平山 洋『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)B・1-フ
◇会田倉吉『福澤諭吉』(吉川弘文館)B・1-フ 
◇高山 毅『福沢諭吉』(講談社火の鳥文庫)B・1-フ
◇小西聖一『福沢諭吉』(理論社)B・1-フ 
◇小泉信三『福沢諭吉』(岩波新書)B・1-フ 
◇鹿野政直『福沢諭吉』(清水書院)B・1-フ 
◇丸山真男『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)小B・1-フ 
◇遠山茂樹『福沢諭吉』(東京大学出版会)B・1-フ
◇福沢諭吉選集』全14巻(岩波書店)081-フ
◇福沢諭吉の手紙』(岩波文庫)小B・1-フ 
◇福沢諭吉教育論集』(岩波文庫)小・371  

【参考文献】
▽ひろたまさき著『福沢諭吉』(朝日新聞社)
▽『福沢諭吉全集』全21巻(岩波書店)

市川学園「100冊の本」 ジャンル: < 高校: 思想・哲学・心理 > 

福澤諭吉著『文明論の概略』 1875年刊行 (文庫)分類-361-フ    

明治維新から8年たち、混沌としていた世相も、それなりに流れが見えてきた。これから目指すべき真の国家・国民の形成に役立てようと、日本(アジア)と西洋との比較を試みた、『文明論之概略』は、「文明」をキーワードに、フランソワ・ギゾーの『ヨーロッパ文明史』やヘンリー・バックルの『英国文明史』を頻繁に引いているだけではなく、それらをベースにして、その枠組のうえに福沢の見解の幹を立て、枝葉をのばした。

「因習の日本に新たな文明論の切っ先をもちこむ」

「一身独立して一国独立」

「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」

 『文明論之概略』ではこのテーゼが一貫して語られる。そんな東洋の、そのまた一隅の日本において、一身独立するにはどうするか。福澤は「私の徳義」を捨てて「公の智恵」を選ぶことだと言い切った。まだまだ儒学が狭隘なセクト主義、門閥制度の温床になっていたから、そこ抜け出て智恵を得るには、「公智」が必要ではないかと考えた。

 個人の智恵ではなく、社会的な智恵をつくるしかないのではないかという考えだ。徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならず、そこから「自由」というものが日本にも得られるはずだというわけである。一人ずつの独立が公の自由をつくり、その公智が戻ってきて個を自在にするという論法なのだ。

 若い、日本の創世期に指針を打ち立てた、この著作はその後の日本への影響を考えたら必読です!挑戦してみよう。

                                                <担当 中田 真人>