市川学園100冊の本の紹介(大隈重信)

大隈重信 ~「早稲田の大風呂敷」と呼ばれた「民衆政治家」~

              吉武 佳一郞

 大隈重信は、1838年2月16日、肥前藩士大隈信保の長男として生まれ、13歳で父を亡くして以降、母の手で育てられた。7歳で藩校弘道館の外生寮に入学したが、1855年、「武士道とは死ぬここと見つけたり」で有名な葉隠主義の儒教教育に反発して学制改革を唱えた騒動の首謀者として退学を命じられ、蘭学寮に移った。のち蘭学寮と弘道館は合併するが、その時、教官に就任している。1861年、長崎に留学して米人宣教師フルベッキに欧米の政治・法律・財政などを学んだことがきっかけで、政治家を志すようになった。翌年、長崎に英学塾「致遠館」を設立した。

 1863年の四国連合艦隊下関砲撃事件で長州藩の援助を企て、翌年の長州征討には、藩主鍋島直正に朝幕間の斡旋によって中止させようとしたが失敗した。また、大隈は藩の代品方になり、長崎~兵庫間を往来して藩内物産を販売するとともに、京都・兵庫・長崎を舞台に尊攘派として活躍した。1867年、将軍德川慶喜に大政奉還を勧告させようとして副島種臣と共に脱藩したが、藩役人に捕えられて謹慎処分をうけた。

 大隈は、1868年、明治政府に外国事務判事に登用された際、キリスト教徒の禁止をめぐって英国公使パークスと互角に渡り合い、一躍彼の実力が評価された。翌年、外国官副知事兼会計官副知事として贋造貨幣問題を処理し、大蔵大輔兼民部大輔になると、鉄道・電信の開設、工部省の開局などに尽力し、1870年参議に昇進した。1873年、大蔵省事務総裁になって財政破綻の回避にあたり、1878年には大蔵卿兼地租改正事務局総裁となって秩禄奉還と地租改正を実施し、明治政府の財政の基礎作りに貢献した。岩倉具視らの遣外中の留守政府内で大隈は、西郷隆盛らの征韓論に反対し、その後、大久保利通の下で秩禄処分や地租改正を進め、大久保死後は殖産興業政策も推進し、いわゆる大隈財政を展開した。また、岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、後々まで、三菱との密接な関係の基礎をつくった。このように大隈は、薩長閥の強い後ろ盾がなくても、外交と財政のテクノクラートとして才能を発揮し、異例の昇進を遂げていった。

 自由民権運動の広がりのなかで大隈は、政党内閣制と国会の即時開設を主張し、開拓使官有物払下げに反対して薩長派と激突した。薩長派の要人たちは、大隈がこの払い下げ問題を利用して民権派と通牒し、薩長派の打倒を企てたと考え、参議の大隈を罷免し、大隈派官僚も多数辞職した(明治十四年の政変)。

 下野後の大隈は、1882年、立憲改進党を結成し、また、自主独立の精神にあふれた人材養成のために、小野梓や高田早苗らと東京専門学校(今の早稲田大学)を創設した。

 この頃、井上馨の外国人判事の任用案が世上で猛反対され、条約改正交渉が政治の争点になっていた。大隈は、1888年、第一次伊藤博文の外務大臣となり、ついで黒田清隆内閣にも留任して条約改正交渉にあたったが、外人判事を大審院(最高裁判所)のみ容認する改定案が漏れて賛否両論が高まり、1889年、大隈は、玄洋社員来島恒喜に爆弾を投げつけられて負傷し、右脚を失って辞職した。1896年、改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成して党首となり、まもなく松方内閣の外務大臣となり(松隈内閣)、翌年3月農商務大臣も兼任したが、11月に辞職した。

 1898年、自由党と進歩党を合同して憲政党が結成されると、日本初の政党内閣として、大隈を首班とする隈板内閣(第一次大隈内閣)が発足したが、4か月で分裂して内閣は倒れた。その後も憲政本党総理として活動したが、1907年、いったん辞任して政界から退き、大隈は初代早稲田大学総長となった。

 しかし、第一次憲政擁護運動がおこると、ふたたび政界に担ぎ出され、1914年、76歳にして総理に任命されて第二次大隈内閣を組閣し、第一次世界大戦に参戦した。翌年には対華二十一か条の要求を中国に押しつけ、軍備の拡大につとめた。総辞職後は、完全に政界を引退した。

 大隈は「政治は我が輩の生命である」と豪語したように政治家であったが、早稲田大学の創設など終生教育事業に尽力し、また、文明協会や国書刊行会の創設、全国へ講演活動、雑誌『新日本』『大観』の発行、『開国五十年史』『開国大勢史』『大隈伯昔日譚』などの著述など、国民文化の向上と国民の養成に尽力した明治文明の推進者でもあった。大隈はすごく磊落で楽天的な人柄で「民衆政治家」と親しまれる一方、「早稲田の大風呂敷」などと陰口された。大正11年1月10日、85歳で死去した。日比谷公園で催された国民葬には30万人が拝礼し、埋葬地の護国寺への沿道には150万人の人出があって明治天皇の御大葬以来の雑踏となり、一ヶ月後でも墓前に日々3千人の参拝者があると新聞に報道されたように、圧倒的な人気を国民にもっていた。それは、薩長藩閥に孤軍奮闘した大隈への判官びいきによるものであった。

【第三教育センター所蔵の「大隈重信」関連の本】
▽中村尚美『大隈重信』吉川弘文館B・1-オ 
▽服部之総『明治の政治家たち下』岩波新書281
▽岡義武『近代日本の政治家』同時代ライブラリー15岩波書店312-オ

【参考文献】
▽佐藤正憲「イギリス流民権論者 大隈重信」(歴史教育者協議会編『人物で読む近現代史』上巻、青木書店)
▽楠精一郎「砂鉄の『民衆政治家』・大隈重信」(同氏『列伝・日本近代史~伊達宗城から岸伸介まで~』、朝日選書652)、ほか多数。

市川学園「100冊の本」 ジャンル: < 高校: 日本文学 > 

NHKBOOKS版『「明治」という国家』(上下) 司馬遼太郎 著 216

 明治という時代を、平明な言葉で語られている。政治・文学でもなく風俗でもなく、その専門的な話しにとらわれていない。たんに「明治時代」というとらえ方ではなく、「明治国家」と限定し、「国家」という明確なイメージをもって語る。

 幕末の3人の遣米使節の毅然(きぜん)とした人間像、徳川の幕藩体制という世界にもまれな政治体制、その約300藩の”多様性”、廃藩置県・青写真なしの国家創りなど、それぞれの立場で国家に関わる”人物達”の様子を、活き活きと語りかける。

明治国家という、人類文明のなかでにわかにできた国の物語として語った…。人類の一遺産であるかのように、思っている。……明治国家も、ある時期の世界史にそういう国があったと見る方がわかりやすい」と著者は言う。

江戸期の日本は別の体系の文明だった。しかし、まったくそれとは違う体系の「明治国家」を成立させたということは、世界史的な事件ではないか。明治を考える上で非常に参考になり刺激的な話題の提供になる必読の一冊です。

司馬遼太郎 略歴 (しば りょうたろう)1923年~1996年。大阪府大阪市生まれ。筆名は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から名付けた。産経新聞社に在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞した。歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など多数あり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどで活発な文明批評もおこなった。             

<中田 真人>