第3回「東西を翔る哲学の光彩」

ライター:Aグループ 熊谷勝広先生、Bグループ 瀧本泰之先生

第1セッション  デカルト『方法序説』

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対話に先立ち、コモデレーターから西田哲学に関する〈思い出〉の著書―中村雄二郎『西田哲学の脱構築』―が簡単に紹介された。「脱構築」というタイトルが、デカルトと西田という東西の哲学を対比する上でヒントになるのでは…という趣旨によるものであった。これを受け、モデレーターからは、2つのテキストの組み合わせの妙が〈立体性〉という言葉で暗示された。テキストは『方法序説』第2部および第4部からの抜粋で構成されていたが、あえて分断せず、全体を対象として対話が促された。

最初の発言では「4つの規則」のすべてが「私」で始まることが指摘された。「歴史に名を残す人は『私』を基準にし『私』を主張する人であり、だからこそ何百年も読まれ続けているのではないか」という意見だった。次に述べられたのは、第4部との関連で、「デカルトは何事でもはっきりとした証拠がないものは疑うと言っているが、証明するのが自分しかいないのなら、独断になるのではないか」という意見。これには賛同意見が続き、早くも西田と比較されて、主観や自己の判断能力への疑いが指摘された。また、「デカルトは他者を『愚鈍な人々』と捉えているという注釈に触れた指摘もあった。

対話の若干の停滞後、「私」へのこだわりに関する議論を深化させてみてはどうか…というリソース・パーソンからの提案があり、「私とは何であるか」に続く叙述への着目が促された。この導きを受け「本性はただ考えることのみ」という箇所が指摘され、「デカルトにとっての『私』は身体より精神である」という把握が述べられた。これを受けてモデレーターから二元論という考え方が教示されると、「二元論では、寝たきりで意識のない病人をどう捉えるのか」という疑義が提示された。

「私」を軸とした対話の流れとしては、「デカルトは主観的であることは否定しており、数学における関係と比例の重視は、デカルトの客観性重視の証拠である」、「テキスト末尾の『われわれ』に注目すれば、最終的には『私』のみではなくなっている」などの発言や、「初めは独善的な気がして好きになれなかったが、第4部16節の部分から『一般化』へ向かっていることに気づいた」という読みの変化を述べる生徒も現れた。また、マルクスのデカルト批判に触れる生徒や、注釈を踏まえた意見としては、「思考することが存在することだが、思考・存在は結局神に由来する」という指摘もあった。

後半の対話では、先の「寝たきりで意識のない病人」の問題に触発されたのか、医学を事例とした対話が進められた。「臓器移植は日本よりアメリカだが、デカルト的な二元論が伝統的基盤としてあるから西洋医学の発展があったと思う」という発言には、「東洋は儒教的思想も影響して臓器移植のような発想には馴染まなかったのでは」という付加がなされ、「臓器移植の事例によって、身体にこだわりを持たず精神のみと考えるデカルトの思想がしっくりと理解できた」という賛同意見も述べられた。さらに「精神のありかは脳・心臓・細胞すべてなど、さまざまに考えられるが、ドナーの性格が移植された患者に移ったという報告があり、そうなると、どちらの人が生きているのか」という問題提起もなされた。時代背景を踏まえた発言としては、「宗教がらみの戦争が続く何を信じていいのかわからない時代だったので、『われ』を信じるという思想が受け入れられたのではないか」という指摘があった。

結びとして、リソース・パーソンからは「デカルトは子どもを5歳で亡くしているのだが、彼はそういう『現実世界』をどう捉え、どのように形而上学の世界へ入っていったのか…などという角度から考えてみるのもおもしろいのではないか」、コモデレーターからは「時間という軸でデカルト思想を読んだらどうなるか」という示唆が与えられた。

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第1セッションはデカルトの『方法序説』である。モデレーターから近代哲学の父と称されるデカルトについての簡単な説明の後、第二部「方法の規則」についての対話がなされた。

デカルトの提唱する規則がたったの4つに集約されることに着目し、規則が少ないからこそ汎用性が高く、学問のみならず、実生活にも応用がきくことを自身の経験と重ね合わせた発言が続いた。さらには合理的かつシンプルな規則だからこそ後世まで強い影響力を持っていたのではないかという指摘がなされた。こういった流れの中、それら規則の目的が「理性をよく使うこと」であることに着目をした発言を契機に、対話は「理性とは何か」に焦点が当たる。それを考えるために「理性」の対立概念を探る発言が続き、感情的ではない部分、つまり「理由付け」または「原因の追及」することが理性の正体なのではないかという把握が述べられた。その主体は常に「私」であることが対話者のなかで了解を得られることで、第四部「形而上学への基礎」での対話の土台が構築された。

モデレーターの導きもあり、ここから対話は「私」の正体に迫る流れへとなる。「私」とは精神なのか、物体(身体)なのか。精神は物体には依存しておらず、完全に自立しているという発言が多くなされる一方で、精神の動きは身体の動きと分けること不可能であるという物心一元論に基づく発言もなされた。「物体なしの精神」は果たして存在するのか。「脳死」や「臓器移植」をはじめとする医学の事例へ対話は進み、「デカルト的な二元論が背景にあるからこそ西洋医学のなかで臓器移植は肯定された」という旨の意見が続いた。「認知症に関してはどうか」というモデレーターの促しをうけて、臓器移植と同様のことがあてはまる、という意見が出る一方で、「認知症の人も脳死の人も、そこに自己の精神がなくても家族など、周りから認められればその精神の投影として「存在」はしているのではないか」という発言が対話を締めくくった。

結びとして、コモデレーターからは改正臓器移植法を取り上げながらも西洋的な二元論と儒教的な物心一元論のどちらかではなく、両面あってもいいのでは、というフレキシブルな意見が提示された。また、リソースパーソンからは「人間の持つ理性の根拠は神である」という対話中の発言を受けて、神の証明については後半の対話でも考えてみてはどうか、モデレーターからは「死者」に対する態度を国や宗教を軸に比較すると新たな角度から「私」の正体に迫れるのではないか、という示唆がなされた。

第2セッション  西田幾多郎『善の研究』

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『善の研究』の対話では、まずモデレーターから、アプローチプリントに記された読みの視点への留意や、必要に応じて注釈をヒントにしながら読み進めることが促され、次にテキストの解説文の読み合わせによって、西田哲学と『善の研究』のアウトラインが確認された。第1セッションの『方法序説』同様、テキストをあえて分けず、全体を対象として対話が始められた。

冒頭しばし沈黙が続いた後、最初に述べられた発言は、天体を例とした「経験的事実」の叙述に触れたもので、「デカルトは真実は一つと言ったが、真実は何を基準にするかによって変わっていく」という指摘であった。これに続いたのは、「経験的事実」の叙述に続く部分に着目した意見で、西田によるデカルト的考え方への批判および東西の哲学の違いが指摘された。

IMG_7783モデレーターから、この着目箇所に含まれる「直覚」とは何か―と問いが発せられると、対話は漸進的に活性化していく。リンゴや机の例を利用しながら、「人間の意識によって捉えられるものだ」、「肉体・精神の結びつきで受け取るもので、デカルトの二元論とは違う考え方だ」などの発言が続いた。また「直覚は意識現象であり、『赤』は直覚で『リンゴ』は推理だ」という意見、さらに、記号学で学んだことを踏まえながら、「直覚は人間を安心させるためにもともと備わっているものではないか」という考えが述べられ、「そもそも直覚と思惟は分けられるものなのか」という疑義も提示された。

IMG_7789その後、デカルトとの対比として、「西田は、真理を思考より実践によって求められるものと考えている」という意見が出ると、「疑って疑いようのないものを求めていくという点では2人とも同じだが、何をもとにして疑っていくかという方法においては異なっている」という発言が続いた。さらに、「西田はすべての『人工的仮定』を去ると言うが、それはデカルトが依拠した数学や科学を含め、人間が作り出したすべてのものを指し、西田はそれらを取り去って直接に意識現象として捉えられるものだけを頼りにしたのだ」という指摘がなされた。

ここで対話者の中から「超経験的実在」とは何か―という問いが発せられると、「具体例が浮かばない」という発言者が現れる一方で、「神を信じている人にとっては、それが超経験的実在になるのでは」という返答があり、これにはさらに「その場合もやはり何らかの経験によらず実在を確認することはできないのでは」という応答がなされた。

対話が若干錯綜気味に隘路へ向かいそうになった時、リソース・パーソンから「真の実在」に始まる叙述の流れが確認され、「真の実在」とは何かを軸とした対話が促される。2節への着目が示されると、対話者の目は再び「直覚」や「仮定」へと向けられる。しかし「真の実在」の具体例はなかなか出てこない。対話者の中から「真の実在と天地人生の真面目」という並立表現が指摘されると、これを受けて、モデレーターから注釈の「馬が走る」と「走っている馬」との違いが「真の実在」を考えるヒントになるという示唆が与えられた。

結びとして、リソース・パーソンからは、西洋の二元論の持つ基本構造や問題点、および西田哲学に言う「純粋経験」の事例がいくつか教示され、さらに対話者それぞれが改めて考えてみることが促された。コモデレーターからは、デカルト『方法序説』の対話で出されたいくつかの事例を「純粋経験」に照らして考えてみたらどうなるだろうかという示唆が与えられた。

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第2セッションは西田幾多郎の『善の研究』である。モデレーターからアプローチプリントに記されている読解の留意点や、注釈が読みの手助けになることが確認されたのち、西田哲学について、西洋思想を鵜呑みにするのではなく、かといって旧来の東洋的・伝統的な思想でもない独特の思想であるとの概要が述べられた。また、対話の中でキーワードとなり得る「純粋経験」について卑近な例に置き換えたり、デカルトとの対比をしたりしながら対話を進めてみては、というヒントが提示された。

対話は、精神的要求を持つもの、実践的要求を持つものとはどのような人間かを教師と生徒などの身近な存在に置き換えることで具体化するところから始まった。そこから「心理はひとつである」という記述に着眼点が置かれ、デカルトとの共通点を探る発言が続く一方で、「基準によって何が正しいかは変わる、つまり何をもとに疑うのかという方法において西田はデカルトと異なる」という相違点についての発言がなされ、モデレーターの促しもあり、知識と実践は等しく扱うべきという「知行合一」の考えにまで対話は及んだ。デカルトは明晰だけではなく判明であることが必要だと述べていることを踏まえながらも、西田によればはっきりと自分の目に映るものが真だとするデカルトの考えは独断であり、経験をもって真理を見極めることが肝要である、といった旨の対話がなされた。ここから対話はそのデカルトと西田を分ける経験、すなわち「直覚的経験」とは何かへと焦点を絞ってゆく。

IMG_7788「直覚的経験とは何か」また、「走っている馬」と「馬が走っている」の違いやそれ以外の具体例に関しての提示がモデレーターによって促されると、ここから対話は一気に活性化される。直覚的経験とは「そのままに知覚すること」であり、「考えること」や「意識」は含まれないという発言を皮切りに、リンゴや走っている馬を例に挙げながら「直覚的経験とは写真のようなもので、それが何かを理解しようとするとそれは思惟となり、経験的事実となる」や「「馬」や「走る」という単語を知らなかったとしても、「自分の知らない何か」というものに当てはめようとした瞬間に思惟が生まれ、直覚的経験にはなりえない」といった発言が飛び交ったところで対話は終了した。