第1回 古典との対話へ Why don’t we have a dialogue?

ライター:Aグループ 守脇竜彦先生、Bグループ 馬場晴美先生

第1セッション  オルテガ『大衆の反逆』

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日本アスペン研究所よりお招きしたモデレーターより、19c末から20c初頭のスペインの衰退やファシズムの台頭、車やラジオ放送の登場など大衆社会化が始まった時代背景の説明を皮切りに対話が始まった。

まず、オルテガのいう大衆および少数者の意味について対話が行われた。大衆とは「特別の資質を持たず、自分の人生に対して何の要求もしない」のに対して、少数者とは「自分の人生に最大の要求を課す」という記述についての指摘から、次第に大衆と少数者の輪郭が浮き彫りになっていく。

続いて、オルテガのいう大衆はいつ出現したのか?について対話が展開された。世界史の授業で得た知見をもとに、全国民を動員する総力戦としての第1次世界大戦の意義を指摘する鋭い考察や、古代ギリシャのポリスで戦乱のたびに市民が様々な要求をする事例、さらに産業革命によって文明の利器が発達し人々の生活に余裕が生まれたことが大衆の登場を準備したのではないか、など対話が活発に行われた。

大衆は自分に対して何の要求も課さないのに、「喫茶店での会話」で得た程度の知識で社会に対して様々な要求をし始めることをオルテガは問題にしており、今の自分たちのあり方についても対話が展開した。他者と違うことを考えれば良いのでは?いや、大衆を大衆たらしめる力が働いておりそれは難しいのでは?その力はメディアではないか?など活発な対話が続いた。

「喫茶店での」、を「ネットでの」と読み替えると、みんながネット上で面白いと言っている、という程度の動機で大衆は行動しているという指摘や、「自己のうちに一つの普遍的な類型を繰り返すという限りにおいて人間なのである」などの箇所への指摘があがった。

最後にモデレーター・リソースパーソンから、オルテガは大衆が権利ばかり主張して義務を果たしていないことを警告しており、自己完成の努力をしているのかどうかを全ての人に対して問うているのでは?という意見や、誰もが大衆の性質を持っているなら、逆に誰でも大衆から脱却できるとも読めるので、悩むこと自体が大事なのでは、というサジェスチョンで対話は終了した。

☆Bグループ

Bグループの対話は、『大衆の反逆』が書かれた時代におけるオルテガの危機感が、現代の社会に通じるところがあるという指摘から始まった。

対話者は現代との対比の中で読み進め、これまで民主主義は盲目的に良いことだと考えていたが、ヒトラーや極右政党・ISなどを例にあげながら誰彼構わず主権をもつことの危機について対話が広がった。 IMG_6087

ここでモデレーターより、そもそも「大衆の反逆」とは何だろうかという提議があり、大衆と少数者の定義分けをしながら、大衆がその場の雰囲気や流れで政治を動かしてしまう(本文でいう「喫茶店での話題から得た結論を実社会に強要する」)ことが当時の脅威であるとの意見が出され、これを機に様々な対話が行われた。

さらに私たちは大衆か?少数者か?という問いが出され、多くの対話者が大衆であると答え、中には時に大衆であり時に少数者であるとも答えた。

さらに当時の「喫茶店」を現在の「Twitter」などSNSに置き換えると、現代においても私たちが大衆として権力の中心に座ってしまう可能性を指摘した。

後半になって、オルテガは大衆を批判することで大衆を生み出した少数者へも警告を発したのではないかという投げかけが出るなか、モデレーターよりオルテガは大衆が権利ばかりを主張して義務を忘れていると警告したと説明を受け、これは現代の私たちの社会でも共通する課題かもしれないという指摘で対話は終了した。

第2セッション  E・フロム『自由からの逃走』

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オルテガに比べ難解な用語が並ぶ本書の対話は、自由の解釈をめぐってスタートした。

理性的権威と禁止的権威について、「人間の自然的傾向を克服し、個人の内部の一面、すなわちかれの自然を、他の面、すなわちかれの理性、意志、良心などによって決定的に支配することが、自由の本質であると考えられていた。」とある部分で多くの対話者が解釈に悩んだようである。

外的権威による支配を脱し、個々人の内的な良心によって自らを律することが自由なのか、それとも自分を何らかのルールで律している時点で自由ではないのか?さらに内的権威から匿名の権威まで進むと、支配されているのかどうかもわからなくなり、自分で物事を決定しているつもりでも、世論に支配されているかもしれない、KYという言葉が匿名の権威を象徴しているかも知れない、など様々な意見が出された。

オルテガに関連づけて、「勃興する中産階級の政治的勝利によって、外的権威の特権は失われ、かつての外的権威の位置に、人間の内的良心が取って代わるようになった」という記述も、大衆の良心自体も危ういものであり、現代社会への警句とも読めるとの意見が出された。

匿名の権威についても、昨今「忖度」が取りざたされていることや、広告やマーケティングの普及など現代的な権威への服従例も挙げられた。 権威主義的思考を身近な高校生活に引きつけて、勉強や部活など何の縛りもない自由な時に無力感を感じることや、怒ってもらいたいときがあることなどから、自由でない方が楽かもしれないなどの意見も出た。

さらに、意思の強さと自由の関係についての対話が繰り広げられ、アメリカのIT起業家などは権威主義的でないのか?強い意志をもつフロム自身は権威主義的でないのか?などの意見が続いた。

最後にリソースパーソンから、権威と権威主義的をきちんと分けて読むこと、ナチスの例をフロムが挙げていることの意味を考えてみること、人は権威主義的にもなるし権威主義と戦うことも出来ること、KYと言う場合の「空気」は外部ではなく自分の心の中にあるのではないか、などのサジェスチョンで対話は終了した。

☆Bグループ

2本目のテキスト『自由からの逃走』では、オルテガは大衆が権力をにぎることを警戒し、フロムは自由から逃げて権威に従っていることを警戒しているのではという、『大衆の反逆』との対比から始まった。

これまで「自由」や「良心」は漠然とPositiveな意味で捉えていたが、オルテガ、フロムが必ずしもそう捉えていないことに驚きの声があがった。

さらに対話者が人間は何かの権威に従っている方が自分を守ることが出来るのではないか、と指摘すると、対話は「権威」についての分類へと進んだ。

特に「匿名の権威」について、日本でもよくある暗黙の了解やKYという言葉、戦時中の“お国のため”という思想にも通じると指摘すると対話が広がり、「禁止的権威」や「理性的権威」は自ら従っていて権威の実態を理解しうるが、「匿名の権威」は何が人を従わせ支配しているのかが分からずに囚われている点が怖く、同時に人々の反感を買わずに支配するには「匿名の権威」が最も有効ではないのかという意見が出た。P1120861

ここでリソースパーソンよりこの本が書かれたのは1941年のドイツであることが説明された。当時ナチスが国民の選挙によって選ばれたことから判断するに、フロムは権威によりかかって生きているうちは根本的な無力感があって、現状維持で権力によりかかったままでいい、というのが自由から逃れる人々の気持ちと考えたのではないかという意見が挙がった。ナチス支配下で生きた権威主義的性格の人にとって残された1つの幸福がその力に服従することであり、自由のために服従することになったのかもしれない、という意見が出た。

最後にモデレーターより自由に動いているようで「匿名の権威」に従っていることはないか、まわりの空気を読んで従っていることが自分の自由を縛っていないか、などのサジェスチョンがあり、対話は終了した。