58.人間の誠実さと教師冥利について・・・大平正芳首相と稲田伊之助先生

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人間の誠実さと教師冥利について・・・大平正芳首相と稲田伊之助先生

理事長・学園長
    古 賀  正 一

2010.7.1

 今回の参議院選挙では、財政再建、成長戦略、社会福祉など大切なテーマが多く、政治に無関心ではいられません。将に今日本は、財政、経済、政治、さらに教育ともに危機に立つ国家です。消費税増税の論議も高まっています。

 消費税が話題になるたびに思い出されるのは、鈍牛と言われ昭和55年6月急逝された大平正芳首相のことであります。消費税を最初に言い出したのは第一次大平内閣であり、昭和54年衆議院選挙の過半数割れの結果を受け撤回、その後自民党内は分裂状態、政局は混迷を極めます。昭和55年5月不信任決議案可決を受けてハプニング解散となり衆参同時選挙に突入します。そして大平首相は、その選挙中の6月12日心不全により、急逝されました。

 実は首相の小学校時代の恩師であり、当時市川学園で教鞭をとられていた稲田伊之助先生のもとへ、4月から5月にかけ首相から二通の書簡が届けられていました。政治情勢が混沌の中で、二度にわたる手紙には胸を打つものがあります。当時稲田先生は、生い立ちの記とも言うべき随筆集『あした葉』を刊行され、4月に教え子である首相に自著を贈呈します。そして超多忙な中、一通の丁重な書状が届きます。さらに二十日後には、約束した読後感を含む二通目が寄せられました。この二通の手紙は、日付から一通目が欧米・中南米諸国歴訪の前々日、二通目は衆議院解散翌日、多忙な苦境の日々の中で自筆による恩師への心温まる手紙です。人間としての誠実さと恩師を慕う気持ちに胸打たれます。時は経っても教え子を思い、先生を慕う師弟の真心は変わらないものです。稲田先生はこんなに多忙な、こんなに責任の重い人に手紙を書かせ、相済まぬ悪いことをしたとの気持ちを吐露されています。大平首相にとっては、多忙苦境の中で稲田先生の本を読み、青春の日を思い、一服の清涼剤として救われた気持ちもあったことでしょう。文は人なりと申します。大平首相の誠実な律義な人柄がにじみでている二通の手紙を原文のまま紹介します。 

*大平首相からの第一信

 謹啓、時下、愈々ご清祥に渉らせられ、慶賀の至りに存じます。

 さて、本日は、貴書『あした葉』御恵投に預り、誠に有難く、厚く厚く御礼申上げます。日頃は御無沙汰ばかりで全く汗顔の外なく存じていますのに、お忘れもなく御芳誼を頂き、感激の他ございません。丁度明後三十日より九日間北米中南米方面に出向きますので、機中絶好の読物を得ていささか心が躍っております。

 何れ読後改めて御礼申上げる所存でありますが、不取敢思わざる御芳情に接した悦びをお伝えいたします。

 先ずは右要々御礼まで。御令室様によろしく御鳳声下さいませ。      不一

      四月廿八日夜                  大平正芳拝

稲田伊之助先生   玉案下』

 

*大平首相からの第二信

 前略  先般御恵投頂きました『あした葉』、偶々過般外遊中五十八時間機中におりましたので、楽しく読ませて頂きました。

 私が驚きましたのは、稲田先生の御記憶の強さ、正確さです。私など幼少の頃の記憶が不確かであるのに比して、先生のそれの正確さには只々舌を巻く次第です。次に用語が平易、表現が簡明。これこそが正に達人だという感嘆の思いで一杯です。それよりも何よりも、人間に対する思いやりや愛情の深さに痛く感銘するとともに、先生御自身の清涼な人生が崇高なものあることに羨望の思いさえ感じた次第です。本当に御恵投有難うございました。

 どうかいつまでも御健勝で、われわれ後進を御教導下さいますようお祈りいたします。先は御厚礼まで。                          不一

    五月二十日早朝                  大平正芳拝

稲田伊之助先生  玉案下』

 稲田先生(国語科)と大平首相は香川県和田村立小学校の同窓であり、大平少年は高等小学校時代、青年教師稲田先生の教え子でもありました。稲田先生は、貧しい生活の中、独学・通信教育、検定試験などで小学校、中学校の教育免許はもとより、旧制高等学校の国語の検定試験にも合格した苦学力行の方です。先生はその後愛媛県、香川県の県立高等学校の国語科主任、指導主事、教頭等を歴任され昭和34年請われて市川学園教諭となりました。以来30年近く当学園で教鞭をとられました。現代文、古文、漢文にわたり博識、卓越した国語教育力をもった先生でした。古賀米吉前理事長の死去後、伝記『古賀米吉伝』を執筆編纂されました。

参考文献; 市川学園新聞特別号(昭和55年8月20日)