市川学園100冊の本の紹介(内村鑑三)

内村鑑三 ~信仰による義侠をモットーとして終生戦った無教会主義者~  

吉武 佳一郎

万延元年、高崎藩士の子として誕生した鑑三は、「私は戦うために生まれた」と自伝の中でと記しているように、終生、武士の自覚のもとに生きました。明治7年に東京外国語学校、10年に札幌農学校に入学しました。入学当初の鑑三は、邪教のキリスト教を日本から追放して欲しいと神社に祈るような青年でしたが、上級生から強制的にクラーク博士の「イエスを信ずる者の契約」に署名させられました。しかし、旧約聖書のモーゼの十戒を知り、モーゼがイスラエルを救ったように、自分は日本を救うのだと覚醒してキリスト教を信ずるようになり、翌11年、新渡戸稲造と共に宣教師ハリスから洗礼を受け、札幌に教会を造るまでに至りました。卒業の際、新渡戸らと「二つのJ」(Jesus=イエス・キリストとJapan=日本)のために各自の生涯を捧げようと誓い合いました。

卒業後、北海道開拓使御用掛や農商務省御用掛に就き、17年渡米して州立白痴院で働いた後、アーモスト大学に入学し、総長J・H・シーリーの感化で贖罪信仰を得ました。21年ハートフォード神学校を中退して帰国し、北越学館や東洋英和学校・水産伝習所で教えた後、第一高等中学校の嘱託になりました。翌年、教育勅語奉戴式で、勅語の天皇の署名に対し、鑑三は唯一神を礼拝するキリスト教徒の良心に従い、最敬礼を避けて会釈にとどめました。すると、教員・生徒、やがて国家主義者や仏教徒から「非国民」という激しい非難がおこり、いわゆる「不敬事件」に発展しました。日頃から「天皇の忠臣」を自認する鑑三にとって、不本意な非難で精神的にまいっていたところに流感にかかって病床に伏したあげく、失職させられました。また、妻嘉寿子も夫への心労で病死してしまいました。しかし、この一連の不幸な経験は、鑑三をキリス卜者としての全生涯を決定づけるものとなりました。特に妻を亡くしたことは人生を真剣に問い直す機会となり、死は「永遠に続く人生の一事件にすぎない」という「天国への開眼」は、先立った妻との再会の拠り所になったばかりでなく、不幸や苦しみに満ちた「現世」にくじけずに生きる源泉ともなっていきました。それは同時に、醜い世の中にあっても神を信じて希望を失わず、一つの「主義」を貫く、勇ましく高尚な生涯を送ることが「後世への最大の贈り物」だから、「少数の正義」の側に立ち、「多勢の不義の徒」と闘う「義侠心」こそが、今の自分に求められていると鑑三は確信するに至りました。

その後大阪泰西学館・熊本英学校などを転々とした後、執筆に専念して『余は如何にして基督信徒となりし乎』・『日本及び日本人』(のちの『代表的日本人』)などの著作を発表して名声をあげ、30年には『萬朝報』に主筆として入社しました。足尾鉱毒被害民の救済運動に挺身する田中正造を支援したり、幸徳秋水らと社会改良をめざす理想団を結成する活動をしました。また鑑三は、日清戦争は朝鮮の独立を助ける「義戦」だと主張しましたが、戦後、半植民地化されていく朝鮮・中国をみて自己批判し、明治36年、日露開戦論が多く叫ばれる最中、絶対的非戦主義の立場を明確にした「戦争廃止論」を発表しました。鑑三にとって非戦論の唱道は、「少数の正義」の側に立って自分の「主義」を貫く、信仰による義侠の実践でした。日露戦争で非戦論を主張して幸徳や堺利彦と萬朝報を退社後、信仰だけに頼りに無教会運動を展開していきました。鑑三が「無教会」という用語を公にしたのは、雑誌『無教会』の発刊によるもので、最初は教会のない者の教会という程度の意味だったのですが、しだいに洗礼・聖餐の儀式と牧師制度を無用とするようになりました。とりわけ、「不敬事件」で日本国中から社会的な追放を受け、強制的に入信させられたキリスト教の神を怨み、国民からも神からも孤独に置かれた時、はじめて神の恩寵のみが慰めであることがわかると同時に、この恩寵に支えられてはじめて自己の独立と自由を自覚しました。独立したキリスト者となって、はじめて藩閥政府や実業家などの不正不義を憤砕して自由に祖国を愛することができ、またそうすることが神を愛するゆえんだと考えました。鑑三の無教会主義にはこのような信仰上の自己自覚があり、その独立と自由を発揮するには、日本の国家権力からも、西洋そして日本の教会からも個人は解放されなければならないとしました。33年にわが国最初の聖書の研究誌『聖書之研究』を創刊しました。鑑三は生涯、聖書そのものの研究を通じてその真理を解明にし、またそれを通じて痛烈な社会評論を試み、無教会主義の立場を明らかにしました。一方、明治40年ごろより聖書を講じて、無教会主義を奉ずる彼独自の日曜集会に発展させ、昭和5年、70歳で亡くなりました。

[内村鑑三アラカルト]
①「不敬事件」で国家主義者たちが、鑑三宅にいやがらせに来ていたある日、暴漢たちが室内に乱入しようとした時、鑑三は病床で死を覚悟していました。その時一人の男が、「自分は内村君が真の愛国者であることを知っている」と大声を発して暴漢の前に立ちはだかり、鑑三のリンチによる生命の危険を救いました。その男は日本柔道の大成者嘉納治五郎で、彼もまた義侠の人でした。
②『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、各国に翻訳されました。彼らは鑑三が日本でおこした無教会主義が、原始キリスト教をみずみずしく再生したことを理解して歓迎したため、ヨーロッパ中で大きな反響を呼びました。

【参考文献】
今高義成「解説・略年譜」(内村鑑三『デンマルク国の話ほか』[教育出版]所収)河上徹太郎「解題」(明治文学全集39『内村鑑三集』[筑摩書房)所収)臼井勝見・高村直助・鳥飼靖‥由井正臣編『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)

【センター所蔵・内村鑑三の本】
How I Became a Christian(余は如何にして基督信徒となりし乎)』 小194
『後世への最大遺物』 分類914.6
『代表的日本人』 分類281 
『内村鑑三全集』(全25)分類190 を所蔵しています。

市川学園100冊の本 < 高校   ジャンル:思想・哲学・心理 >

岩波書店刊 「代表的日本人”Representative Men of Japan”」 1908 内村 鑑三著(鈴木 範久訳)

明治時代半ば以後の欧米各国では、国際的に急速に存在感を増した日本・日本人に関心が高くなった。不思議な異教徒・日本人のイメージの払拭のため、内村鑑三は5人の偉大な日本人を”具体的に”紹介することで、日本・日本人の倫理・道徳、宗教などの精神面からの”解説”を試み、英文で発表されて欧米各国語に翻訳された。同じころ、新渡戸稲造も英文の「武士道」を発表。西洋倫理(特にキリスト教)との比較を試みて、鎖国から急激に近代化した”日本的精神”を紹介した。(新渡戸と内村は札幌農学校の第2期生で同級であり、クリスチャンであった)

「西郷隆盛」は明治維新の偉大な‘革命家’であるが、その思想は「清教徒革命」のクロムウエルに比肩される……。「(江戸期米沢藩々主)上杉鷹山」は封建領主ではあるが、‘聖人の治世’を実現した名君。「二宮尊徳」は農民聖人とされ、荒廃した農地などの再興に貢献したが、その精神性の高さは後々まで伝えられた。「中江藤樹」は村の先生といわれ、‘謙譲の徳’こそ最高の道徳とした。

宗教家は「日蓮」をあげる。5人の偉人の、その精神性の高さは、欧米(キリスト教をバックボーンにした)のそれと、異質なものではないと強く主張している。日本人としての「精神性」について、いま一度しっかり考えて見てはどうか。

[中田 真人]