市川学園100冊の本の紹介(田中正造)

 田中正造 ~足尾銅山鉱毒問題の解決に一生を捧げた明治の政治家~  

                                                      吉武 佳一郎

田中正造は、天保12(1841)年、下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)に生まれ、安政4(1859)年、17歳で父の跡を継いで名主となりました。慶応4(1868)年、領主と争ってに投獄されましたが、翌年に出所し、明治3(1870)年、江刺県花輪分局(秋田県鹿角市)の役人となりました。そして同4年、上司暗殺の容疑で再び投獄されますが、同7年に無罪釈放されています。同10年、民権政社の中節社を結成して国会開設建白書を元老院に提出し、『栃木新聞』(現『下野新聞』)でも国会開設を訴えました。同13年、栃木県会議員に当選し、以後23年まで県民の負担軽減や小学校教育の充実などに取り組み、明治15年に立憲改進党に入党しました。同17年、県令三島通庸の道路開発に反対したが、加波山事件への関与の疑いで逮捕されましたが、三島の異動によって釈放されました。同19年栃木県会議長に選ばれ、同23年、第1回総選挙で衆議院議員に当選し、以後6回連続当選し、立憲改進党、進歩党の重鎮として活躍しました。

明治23年大洪水があり、古河市兵衛経営の足尾銅山から渡良瀬川に流出した鉱毒が沿岸地域に大被害を与えました。翌年、正造は被害地域を視察し、第2回衆議院議会で足尾銅山鉱毒問題について質問書を提出し、政府の責任を厳しく追及しました。明治29年の渡良瀬川大洪水は、栃木・群馬・埼玉・茨城・千葉・東京の1府5県にまたがる沿岸地域に大被害を与え、また、被害地の出生率が全国平均の半分に、死亡率は2倍以上と、それ以前とは比較にならぬ深刻な被害をもたらしました。犠牲者を1064人と算出した正造は、この事件を「鉱毒殺人問題」と呼び、犠牲者を「非命の死者」と形容しました。そしてこの事件を地域を超えた人類共通の人権問題と認識し、科学技術万能、利益至上主義の近代文明によって人間の生命や自然が破壊されていく、その象徴として足尾鉱毒事件を把握し、「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」と近代文明を批判しました。正造は群馬県邑楽郡渡瀬村(館林市)の雲龍寺に鉱毒事務所を設け、足尾銅山鉱業停止請願運動を呼びかけ、議会でも鉱業停止を政府に再三要求しました。同30年、農民の鉱毒反対運動が激化し、東京へ陳情団が押しかけました。正造の国会質問や東京での演説活動によって、新聞や演説会など鉱毒事件に対する世論が厳しくなると、政府は足尾銅山鉱毒事件調査委員会を設置して古河鉱山に鉱毒予防命令を出しました。しかし、鉱毒被害はいっそう深刻化し、被害民は3回にわたり大挙請願行動(押出し)を行いましたが解決しませんでした。明治33年、農民らが東京へ第4回の押出そうとすると、憲兵・警官隊と衝突する大惨事となり、約百名が逮捕される川俣事件が起きました。この直後正造は、国会で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という、日本憲政史上に残る名演説を行いました。

しかし、政府は根本的解決に乗り出そうとせず、議会・政党に絶望感を強めた正造は、34年、抗議のために衆議院議員を辞職し、議会開院式帰途の明治天皇の馬車にかけよって足尾銅山の鉱業停止を直訴しようとしました。警官に取り押さえられて直訴は失敗しましたが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られて幸徳秋水が執筆して正造が加筆修正したとされる直訴状の内容は広く知れ渡りました。正造は拘束されましたが、単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして、政府は即日釈放しました。正造は死を覚悟し、妻カツ宛に自分は10日に死ぬはずだという意味の遺書を書き残していました。正造の直訴に驚いた政府は、翌年、内閣に再び鉱毒調査委員会を設け、鉱毒処理のために栃木県下都賀郡谷中村(藤岡町)の貯水池化計画が出され、栃木県会もこれに賛成しました。明治36年には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が出され、翌年、栃木県会は秘密に谷中村買収を決議し、貯水池にする工事が始められました。正造は鉱毒問題を治水問題にすりかえるものとして強く反対し、翌年、この問題に専念するため谷中村に寄留し、鉱毒事件の解決に向けて最後まで活動し続けました。

明治39年、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決しますが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表して強制廃村となった谷中村に正造はその後住み続けました。翌年、政府は土地収用法の適用を発表し、「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出ました。しかし正造は、強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗しました。土地収用法適用により谷中残留民16戸の家屋強制破壊に立ちあい、その後も残留民とともに「自治村谷中村の復活」を唱えて抵抗をつづけました。同41年、政府は谷中村全域を河川地域に指定し、同44年、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始されました。土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行いましたが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、大正2年(1913)、支援者らへの挨拶まわりに出かけた途上、支援者宅で倒れ、9月4日に73歳で客死しました。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけでした。

【田中正造アラカルト】
正造は、結婚以来50年も鉱毒問題に熱中して家を留守にし、家族と暮したのは4年足らずで、妻カツや養子文造の名前を忘れることがしばしばあったようです。また、正造が「老いて朽ち果つるまで進歩主義」と自認したように、51歳で鉱毒問題に取り組みはじめ、大正2年の死去まで22年間も地元住民を守るために代議士の地位も名誉も家も財産もなげ捨てて運動に一身を捧げました。住民から「栃木鎮台」と呼ばれていましたが、正造はまさに明治の佐倉惣五郎といえます。そして正造は、「今日ハ今日主義」の考えから、現時点で一人でも多くの人を救うことに全力を傾けましたが、それは正造のヒューマニズム=「人道主義」によるものでした。正造は、公害問題の先駆者、人権と自治を守る民主的な政治家というだけでなく、自然と共生しようとする「エコロジストの先駆者」でもありました。

【センター所蔵の「 田中正造 」の本】
由井正臣 『田中正造』 岩波新書 分類B・1-タ
佐江衆一 『田中正造』 岩波ジュニア新書 分類B・1-タ
林 竹二『田中正造』 講談社現代新書 分類B・1-タ
城山三郎『辛酸田中正造と足尾鉱毒事件』角川文庫 分類小F-シ
砂田 弘『 田中正造 公害とたたかった鉄の人』講談社火の鳥伝記文庫 分類B・1-タ

市川学園100冊の本:高校<ジャンル:社会科学>

『苦(く)海(がい)浄土(じょうど) わが水俣病』  (講談社文庫)石牟礼 道子 著  分類小519-イ   

便利な商品の素材として、なくてはならないプラスチックの生産がもたらした九州・水俣市周辺地域での公害=水俣病が発生してはや50年以上になりますが、未だ被害者の苦悩は続いています。明治時代の中頃に公害第1号といわれる足尾銅山鉱害(渡良瀬川汚染)から始まり、日本の近代化と歩みとともに、各地で公害問題が発生しました。水俣病、新潟水俣病(阿賀野川汚染)、四日ぜんそく(工場地帯の大気汚染)、イタイタイ病(神通川汚染)、以上k四大公害訴訟の他に、その後も血液製剤によるエイズ・肝炎薬害、アスベスト被害、化学物質過敏症などの公害被害が発生してます。

この著書は、被害者への「聞き書き」の形式をとりながら、患者の容体の客観的な資料を添え、患者周辺の漁業関係者などの初期対応から、10年以上にわたる原因発生、会社との交渉経緯、お粗末な行政対応の実態などを浮き彫りにしてその悲惨な状態を紹介しています。なぜ水俣病が起こり、被害がかくも拡大し、救済が遅れたのか?のちの公害問題も同じ推移をたどっているのはなぜか? 人の命の大切さを教える一書であると同時に、決して、絶対に善とは言えない複雑なこの社会経済の仕組みを考える一助になると思います。 

                                                       [中田 真人]