市川学園100冊の本の紹介(星野道夫)

星野道夫 ~アラスカの野生動物や自然や人々の生活を写真と文章で記録し続けた男~

                                               吉武 佳一郎

星野道夫は、1952(昭和27)年9月27日、千葉県市川市に生まれ、小学校の卒業文集に「浅き川も深く渡れ」と書いているように、少年時代から冒険や動物が大好きで、堀江謙一『太平洋ひとりぼっち』や『シートン動物記』などを愛読していた。高2の時に約2カ月間、一人でアメリカ横断の旅をし、1971年には慶應大学の探検部に入部し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳の時、神田の古本屋で購入したアラスカの写真集に載っていたイヌイット(エスキモー)の村の空中写真に魅せられ、毎日それを眺めているうちにだんだんその村で生活してみたくなり、その旨を書いた手紙を村長宛で7つの村に出した。半年後、偶然にも写真に載ったシシュマレフ村の村長のウェイオワナー家から訪問を歓迎するとの返事がきた。翌年の夏、星野は日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフ村を訪ねた。現地の村長宅でホームステイしながら、クジラ漁に参加したり、ムース狩りの手伝いをしながら3ヶ月間を過ごした。

星野が一生涯アラスカに移り住む決定的なきっかけになったのは、中学以来の親友が山で遭難死したことで、人の一生の短さを知り、自分に残された時間を本当に好きなアラスカで写真を撮って過ごそうと決意した。大学卒業後、手始めに動物写真家の第一人者である田中光常氏の助手を2年間務めた。1976年、渡米してシアトルの英語学校に通い、1978年、アラスカ大学の入試を受けた。英語が合格点に30点足りず不合格のはずだったが、星野は学長に直談判して自分の熱意を訴えて野生動物管理学部に入学させてもらった。その後は学業を続けながら、アラスカを舞台にカリブー(トナカイ)やグリズリー(ヒグマ)など野生動物や植物、オーロラや氷河などの自然、そこで生きているイヌイットの人々の生活などを撮影し始めた。1981年、月刊誌『アニマ』(平凡社)3月号に「極地のカリブー 1000キロの旅」を掲載後、雑誌を中心に作品を発表し、執筆活動にも取り組んだ。長時間かけて野生動物の警戒心を解き、息づかいが聞こえるほど至近距離から野生動物の決定的瞬間を撮影して、1985年、最初の写真集『GRIZZLYグリズリー』(平凡社)を刊行し、翌年、第3回アニマ賞を受賞。1989年には週刊朝日連載『Alaska ~極北、生命の地図~』(のち、『Alaska 風のような物語』で平凡社から刊行された)で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞した。1993年、萩谷直子と結婚し、翌年、長男・翔馬が誕生した。1996年8月8日、TBSテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』取材の途中、ロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔でヒグマに襲われ、享年43歳の若さで急逝(きゅうせい)した。テレビのスタッフは小屋で寝ていたが、星野だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張って眠っていて、そこをヒグマに襲われたのだ。『GRIZZLYグリズリー』を出すほど多くのクマを撮り、クマの行動を熟知していたはずの彼がなぜ襲われたのか。「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うようなことはない。」とテレビのスタッフに言っていたそうだが、その判断が甘かったのではなかろうか。星野は、ヒグマをこよなく愛していたので、よほどのことがなければ、銃を持たなかったという。なぜなら、人間とクマが自然に保つ一定の距離を守っていれば、クマは人間を襲うことはない。ところが、人間が銃を持つとそれに頼り、動物と対面した場合に必要な緊張感を失って不用意な行動をとってしまうと考えていたからだ。

星野が写真に自分の文章を添えたことで、その写真は生命や地球環境、地球の生成などを深く考える哲学的メッセージをもった奥行きの深い作品になっていった。星野と親交の深かった池澤夏樹は、『週刊朝日』に掲載した星野道夫の追悼文に、「アラスカに、カリブーやムース(ヘラジカ)やクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。………彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること、彼の人柄を忘れないこと、それだけだ。」と記している。

[妻の直子さんの選んだ星野道夫のメッセージ]

① 星野が若い人に伝えたかったのは、「一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じ取って欲しいこと。もう一つは、好きなことに出会ったら、それを大切にしていってほしいということ」です。(下記の※参照)

② 星野道夫の後押しでフラワーデザインの学校に通い始めた彼女に、星野は、「自分の一生の中で何をやりたいのか。そのことを見つけられるということはとても幸せなことだと思います。あとはその気持ちを育ててゆくことが大切です。育ててゆくということは勉強してゆくことで、本を読んだり、人にあったり、……その結果、自分の好きなことをもっともっと好きになってゆくことだと思います」「才能なんていうのは、その対象に関わる気持ちの前では、小さな小さなことです。長い時間の中ではさらにそうです。自信をもって進んで下さい」と、手紙に書きました。(下記の※※参照)

③ 「子供の頃に見た風景がずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり勇気を与えられたりすることがあるような気がする。」(下記の※※※参照)

【参考文献】
星野道夫『未来への地図』(朝日出版社) ※
星野道夫・星野直子/著『 星野道夫と見た風景』(新潮社)など ※※

【センター所蔵の「 星野道夫 」関連の本】
◇星野道夫『イニュニック[生命]』(新潮社)分類G-530-ホ
◇『森と氷河と鯨~ワタリガラスの伝説を求めて~』(世界文化社)分類388-ホ
◇同『ALASKA 風のような物語』(小学館)分類G-530-ホ
◇同『ALASKA 風のような物語』(小学館)分類G-790-ウ
◇同『星野道夫の仕事』全4巻(朝日新聞社)分類748-ホ-1~4
◇国松俊英『星野道夫物語』(ポプラ社)分類740-ク
◇『星野道夫展 Alaska 星のような物語』(NHKプロモーション))分類748-ホ ※※※

市川学園100冊の本  中学   ジャンル:日本文学 >   

新田 次郎著『アラスカ物語』(新潮文庫) 分類-小F             

明治元年生まれの安田恭輔(フランク安田)は17歳でアメリカに渡った。いろいろの事情から25歳から極寒の地アラスカでイヌイット(エスキモー)の世界に住み着くこととなる。‘ジャパニーズ・エスキモー’と呼ばれながら、イヌイットのリーダーとして人々に尽くして尊敬されたが、人間としても筋を通した骨太の生き方もしている。イヌイットの生活を守るため生涯をかけ、90歳まで一度も故国へ帰ることなく一生を終え、のちのちまで武士の魂をもった日本人として賞賛されて語り継がれることになった。のち、北極海近辺の密漁船を取り締る米国沿岸警備船ハーレー号に、船室員・兼事務長補佐役として乗り込んでいたフランク安田は、氷に閉ざされて身動き出来なくなったハーレー号乗組員の救助を求めるため、単身、死を覚悟して徒歩で大氷原をわたり、母港へ向かうことになった。10日分の食料がつきてしまい、行き倒れていたところを運良くイヌイットに救われ、無事、任務を果たすことが出来た。この事件を機に船をおりたフランク安田はイヌイットの生活にふれ、その困窮した生活ぶりに深く同情することになる。当時、ゴールドラッシュに湧いているアラスカで金鉱脈探しに励み、苦難の末に探り当てる。イヌイットのためにその権利をすべてなげだし、より狩猟に適した土地を求めて移住する資金とし、実際、村中が移住することになった。これは20世紀の奇蹟といわれ、旧約聖書のモーゼの出エジプト記に喩(たと)えられ、安田はジャパニーズ・モーゼと称えられた。波瀾万丈の生涯を送り、逞しく慈愛にみちた一人の実在の日本人の物語で、単なる冒険物語では終わらない感動の一冊です。

                                                      [中田真人] 

新田次郎1912~’80 山岳小説に新分野を拓く。『強力伝』’56直木賞、『孤高の人』、『八甲田山死の彷徨』、’74吉川英治賞