市川学園100冊の本の紹介(ナイチンゲール)

ナイチンゲール~「白衣の天使」の実像は、危機管理の「司令長官」であった~

     吉武 佳一郎

 ナイチンゲールは、1820年5月12日、両親の新婚旅行中、イタリアのフィレンツェで生まれたのでフローレンスと名づけられた。彼女は男勝りの気性で、生家で一生を安穏(あんのん)と生活することに反発し、独立して人類と神に奉仕する価値ある仕事をしたいという「不退転」の決意をしていた。

 本人の告白では、17歳の時、「病人を助ける仕事をせよ」という神の声を聞き、以来、その天命を全うする誓いを立てたという。20代になって病院の介護法に興味を抱き、欧州各国の病院を見学し、1844年、フランスでのカトリック修道女による組織的看護法に感銘した。1851年、ドイツのカイゼルスベルト学園で看護教育を受け、病院で働く決心をした。しかし、良家の子女は家の財産で悠々暮らし、社交と慈善活動をして過ごすのが常識で、職業婦人、ましてや下女たちのする看護婦なんてとんでもない、と母や姉が猛反対したが、父は無給ならばと、しぶしぶ同意した。1853年、ロンドンの病院看護婦になり、ついでドイツとパリで看護法と病院管理法を勉強し、ロンドン慈善病院の院長になった。そして、イギリス各地の病院の状況を調べ、看護婦は病人の世話をする召使だから専門知識はいらないという、当時の常識的な考え方に反対し、専門教育を受けた看護婦の必要性を訴えた。

 1854年、”ロンドン・タイムズ”は史上初の戦場特派員をクリミア半島に派遣した。特派員が報道する戦況と告発される管理体制の遅れなどへの世論の反響に驚いた陸軍大臣ハーバートは、友人のナイチンゲールに看護師総責任者として従軍するように要請した。彼女はシスターと職業看護婦38名を率いてスクタリに赴(おもむ)いた。英国軍の野戦病院は極めて不衛生で、しかも官僚の縦割り行政のため、食料・水・衣類・毛布・医薬品などの救援物資は負傷兵には供給されなかった。彼女は、まず父に頼んで自費で補給物資を送らせた。次に、どの部署からも管轄外であった便所掃除を手がけ、自分たちの受け入れを軍医と慎重に交渉した。傷病兵の急増もあって、この計画はすぐに実現した。彼女からの報告を直接ヴィクトリア女王に届けるように命じられたハーバート戦時大臣は、その報告書を戦地に送って病院内に張り出させた。これで看護婦団や負傷兵らは元気付けられ、対抗勢力に無言の圧力となった。設備も人員も整っていない看護活動は困難を極めたが、彼女は何事にも動じない威厳と敏速な統率力で看護婦たちを組織し、1日20時間以上も働いた。彼女が夜回りを欠かさなかったことから、「ランプをもったレディ」と兵士たちにたたえられた。この頃になると、”ロンドン・タイムズ”を通して集められた国民からの多額な寄贈により、補給機関は円滑に機能するようになった。1855年には病院内の衛生を保つことを命じた結果、約42%もいた死者が3ケ月後には5%に減った。野戦病院での大多数の死者は、負傷からではなく、蔓延する院内感染症によるものだった。こうして、ナイチンゲールの危機管理の潜在能力は、クリミア戦争で一気に開花したのだった。

 ナイチンゲールを「クリミアの天使」というような伝説的な英雄に仕立てたのは、当時のマスコミの扇情的な報道と帰還兵の口コミによるところが大きかった。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来するが、本人自身は、「夜回りは、私の仕事のうちで一番小さなものにすぎない」と言っている。

 クリミアから帰国後のナイチンゲールは、まず、ヴィクトリア女王に陸軍の医療制度改革や看護婦養成の必要性を説いた。そして、陸軍の医療制度と陸軍病院の実態調査に乗り出し、陸軍の医療・衛生改革のキャンペーンを始めた。さらに彼女は、膨大(ぼうだい)な報告書をもとに病院の状況分析を始め、数々の統計資料を作成して改革案を各種委員会に提出した。このためイギリスでは、彼女を統計学の先駆者としている。また、女王の支持と旧友の陸軍大臣の協力を得て政界を動かし、議会に特別の調査委員会を組織した。軍隊の実状は、どの兵舎も過密で上下水道の設備もなく、病気も蔓延して兵士達の罹病(りびょう)率と死亡率が異常に高かった。これを改善するには、軍隊の衛生管理・兵舎の大改築、緊急時の危機管理システムの導入など、医療体制の抜本的な改革が必要で、彼女は戦争経験をもとに新しい制度の必要を説き、5年後、ついに陸軍省の行政改革を実現させた。

 戦時中に集められたナイチンゲール基金をもとに、1860年、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校を創設し、看護婦を専門の訓練と知識を備えた専門職に高める看護学が確立された。その後、同様の各種養成学校をイギリス各地やインドに設立し、のちに近代看護教育の生みの親といわれた。

 ナイチンゲールは1861年以後、心労により寝たきり生活が続いたが、貧民のための医療施設改革にも尽力し、1907年に女性初のメリット勲章(文化勲章)を受章し、イギリスをはじめ各国から表彰された。また彼女の活動は全世界に感動を与え、のちのアンリ・デュナンによる国際赤十字社の創設に大きく影響した。晩年は母親の介護などに当たって活動も少なくなり、長い闘病の後、1910年8月13日、ロンドンで90歳の天寿を全うした。

【参考文献】
◆ヒュー・スモール 、田中 京子 訳『ナイチンゲール 神話と真実』みすず書房
◆黒沢哲哉『ナイチンゲール ”戦場の天使”とよばれたイギリスの看護婦』小学館
◆湯槇ます監修・薄井坦子他編訳”ナイチンゲール著作集”全3巻(1975,現代社)

【センター所蔵の「ナイチンゲール」関連の本】
◇長島伸一『ナイチンゲール』岩波ジュニア新書230 B.3-ナ  
◇村岡花子『赤十字の母 ナイチンゲール』講談社火の鳥文庫 B.3-ナ  
◇吉田紘二郎『ナイチンゲール』世界伝記全集17、ポプラ社 B.3-ナ

市川学園100冊の本 < 高校   ジャンル:外国文学 >

「西部戦線異状なし Im Westen nichts Neues」  エーリッヒ・M・レマルク  秦 豊吉 訳 新潮文庫

 第1次世界大戦。西部戦線(両軍が築いた塹壕線。フランス北東部から、スイス国境、ベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がっていた)での、ドイツ軍の若き志願兵(19歳)の目を通し、戦場の悲惨な現状と、一人の人間としての愛と死、極限状態に置かれた人間の心理が、淡々とした、簡明な文章で綴られている。著者自身の経験をもとにした、ドキュメンタリータッチの小説。全世界に翻訳され、大反響を呼びベストセラーとなった。          

 生れて初めて敵の兵士を殺して、悔悟の気持ちが湧いた主人公・パウルが亡きがらに向かってひとり語りかける。 -おい、戦友、僕は決して君を殺そうと思ってなかった…、初め、ただ敵という観念だった。ひとつの抽象だった。それが僕の頭に働いて、殺そうという決意を呼び起こしたものだ。君だって僕と同じような人間だ。…哀れな犬だ。君のおっ母さんも、僕のおっ母さんも、ひとしく心配している、ひとしく死を恐れている-敵の持ち物袋から、小さい娘の1枚の写真がこぼれ落ちた。それを見た時、戦争が終わったら、この家族に名前をださずに、お金を送ってあげようと考える。初めて人を殺して動揺している、自分の気持ちを落ち着かせために・・・・。ついに主人公も、ドイツの敗戦1月前に前線で戦死すた。その日の司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」だった。一人の人間が死んだのに!人の死が日常的な戦場では、”個人の尊厳”もその命さえももない、。人間の命の大切さ教えてくれる不朽の名作。

エーリッヒ・マリア・レマルクErich Maria Remarque

1898.6.22~1970.9.25 本名Erich Paul Remark。
敗戦後、負傷兵として帰還し復学、卒業後は教員など経て、ベルリンでジャーナリストになる。1929年『西部戦線異状なし』が、世界的大ベストセラーとなる。1938年、ナチスにより国籍を剥奪され、翌年、アメリカ合衆国に亡命・帰化。

【主な著作】
『帰り行く道』(1931) 『3人の戦友』(1937) 『汝の隣人を愛せ』(1941)『凱旋門』(1946)『生命の火花』(1952) 『愛する時と死する時』(1954) 『リスボンの夜』(1963)