市川学園100冊の本の紹介(アンネ・フランク) 

アンネ・フランク ~ 隠れ家での二年間の潜伏生活と心の軌跡を日記に書きつづった少女 ~        

吉武 佳一郞

 アンネは、1929年6月12日、フランクフルト・アム・マインのユダヤ系ドイツ人実業家オットー・フランクの次女として生まれた。ナチスによるユダヤ人の迫害をのがれるため、1933年、母と姉とともにアーヘンの祖母の家に身を寄せ、翌年、一家は貿易商社を拡張した父の住むアムステルダムに移った。1942年、父から13歳の誕生日に贈られた日記帳を「キティ」と名づけ、「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを、何もかもお話できそうです」と一番の親友とみなし、アンネは「キティ」に語りかけるように、日記を書き始めた。第二次大戦中にドイツ軍がオランダを占領すると、1942年、ナチスの摘発から逃れるために家族4人は、他の4人と一緒に事務所3階の屋根裏の本棚に隠された秘密の入り口がある隠れ家に引っ越した。

 こうしてアンネは、密告によって逮捕される1944年までの2年間、窓も開けられず外にも出られない隠れ家で生活することになった。英国BBC放送が刻一刻と大戦の状況を伝えているなかで、アンネは初潮が訪れて性に関心を持ちはじめ、隣室の少年と淡い初恋も経験した。使用人のミープたちが図書館から借りてくれた本とひそかに聞くBBC放送は、アンネが知識を吸収する唯一の手段となった。アンネは、隠れ家の生活や家族など身の周りの出来事を事細かに日記につづった。ナチスの迫害と隠れ家から一歩も出られない最悪の環境にもかかわらず、「人間は本当は善なのだと信じる」「ふたたび平和と静寂がやって来るだろう」と、急速に発達した少女期の心の軌跡を、あふれる感受性と深い洞察力で「キティ」に語り続けた。日記と自分との対話の中でアンネは、自分をみつめる目をとぎすまし、豊かな内省的世界を築きつつ、好奇心の強いおませな少女は、いつしか内省的な少女へと変容していった。こうした状況にもかかわらず、彼女が正気を保ち、人間の尊厳を信じて勇敢に生きることができたのは、ホロコースト記念館のラポポルト部長が指摘したように、奇跡的に数家族と暮らせたことによるものといえよう。

 1944年8月4日、密告者の通報でアンネたちの隠れ家にゲシュタポ(ナチスドイツ秘密警察)が踏み込み、ユダヤ人2家族など8人と、潜伏生活を助けたオランダ人2人を連行した。フランク一家4人は、逮捕後4日間、アムステルダムの拘置所に留置されたうえで、ヴェステルボルクにあったユダヤ人通過収容所に送られた。9月初め、そこから他のユダヤ人1015人とともに、ポーランドのアウシュビッツ行きの最終列車で移送された。15歳未満の子供全員と老人など549人が当日にガス室で殺害され、残りは男女別に収容された。父オットーはアウシュビッツ強制労働収容所に、アンネと母と姉マルゴーはビルケナウ(アウシュビッツ第2)人種絶滅収容所に入れられた。10月28日、マルゴーとアンネはドイツのベルゲン・ベルゼン女子強制収容所に輸送された。この収容所にはガス室はなかったが、ほとんど食事が与えられず、極めて不衛生だったのでチフスが蔓延(まんえん)していた。翌年3月、マルゴーが死んだ数日後、アンネも15歳の生涯を閉じた。ヒトラーが政権をとった1933年からドイツが無条件降伏した45年までの12年間、ユダヤ人問題の「最終的解決」をねらったドイツ人が、ヨーロッパ各地から狩り集めて虐殺したユダヤ人は600万人にものぼると推定され、このうち150万人は子供だったといわれている。父オットーはアウシュヴィッツでソ連軍によって解放され、アムステルダムに帰還した。

 ところで話は元にもどるが、逮捕をまぬがれた使用人のミープは、翌日、隠れ家の床に散乱していたアンネ筆跡の紙の束と赤いチェックの日記帳を見つけた。ミープは、それらをかき集めて階下の自分の机の引き出しにしまい、読まずにそれらを保管していた。一家でただ一人アムステルダムに帰還して事業を再開したオットーが、アンネとマルゴーの死を知って呆然としていた時、ミープは「これがアンネからフランクさんへの遺産です」と言って、日記帳と紙の束を手渡した。こうした偶然の積み重ねが、アンネの日記の紛失を救ったのだった。

 新聞記者か作家になることを夢みていたアンネの日記は、ハンナ・アーレントの指摘のように、「あまりに美しく哀しいゆえに人種差別・絶滅の恐怖を感傷的なものに変えてしまう」恐れもある。また、ネオ・ナチやその共感者らによって長い間、「アンネが世界や哲学を語るところが、少女にしては成熟しすぎている」という理由で、「偽造説」が主張されていた。しかし、これらの説はその後の綿密な研究によって完全に否定され、1980年代にオランダ国立戦時資料研究所によって、「本物」との結論が出された。

 隠れ住んでいるあいだに書き残した生き生きとした感動的な『アンネの日記』は、1947年、父のオットーによって、オランダ語による初版本が出版された。その5年後、英語版が刊行されると、反ユダヤ主義と人種差別、ファシズムと戦争を告発する書として、また優れた思春期の記録として、世界的反響を呼び起こし、50か国以上で翻訳され、5000万部以上販売された。日本でも1952年に初版が発行された。1989年には彼女の性への目覚めを記した部分を含む日記の完全版も公開された。また、日記は劇作化や映画化され、人々に大きな感動と勇気を与えた。日記の他、アンネの書いた童話や創作も出版されている。

 こうしてアンネ・フランクはナチスの支配下における苦しみの象徴となった。アムステルダムのかつての隠れ家は博物館として保管され、ユダヤ人殉難者たちへの巡礼の場となっている。

【参考文献】 
▽皆藤幸蔵訳『アンネの日記』(文春文庫) 
▽木島和子訳『アンネの青春ノート』『アンネの童話集』(小学館)

【センター所蔵の「アンネ・フランク」関連の本】
▽ミリアム・プレスラー著『わたしは憧れているのアンネ・フランク』(ほるぷ出版)B・3-フ   
▽シュナーベル著『少女アンネ~その足跡~』(偕成社)B・3-フ   
▽中川美登利著『やねうらの少女 アンネ=フランク』(講談社火の鳥伝記文庫)B・3-フ   
▽J・ハルウィッツ『アンネ・フランクものがたり~かくれ家の少女~』(金の星社フォア文庫)B・3-フ   
▽松谷みよ子著『私のアンネ=フランク』(偕成社)J-マ 

市川学園「100冊の本」 ジャンル:<中学> 文学 

「アンネの日記 完全版」 アンネ・フランク 著 深町眞理子訳  B・3-フ

第二次世界大戦中(1942年)ドイツ・ナチス占領下のオランダのアムステルダム。
13歳の少女アンネ・フランクの一家は、いつ呼び出されるかと、ユダヤ人狩り(反ユダ政策)の恐怖に脅えていた。 
アンネ一家は、あらかじめ用意してあった”隠れ家”へ家族を伴って移り住む。
そこは父の友人の事務所の上にある隠し部屋。
彼らの食料などの世話は、その友人によって賄われたが、日中は他の事務員にも気づかれぬよう、物音ひとつ立てられない不便な生活を強いられてしまう。

しかしそんな状況にあっても、アンネは両親から誕生日に貰った日記帳に、日々の悩み、苦しみや怒り、そして希望を書き綴ることで、明るさを失わずに過していた。
その隠れ家では、他の家族など、8人の共同生活となった。
時に明るく楽しく、時に絶望に沈むこともあったが、そこで2度目の新年を迎えたころ、 連合軍によるノルマンディー上陸作戦のニュースを聞き、”解放”の日が近いことを知った。

ところが44年の8月、彼らの隠れ家はナチスの知るところとなり、ついに8人全員連行されてしまうのであった。
父を除いて、アンネたちはそれぞれの収容所で、その生涯を閉じる。
解放を間近にしながら、ナチスにつかまってしまうアンネ一家だが、最悪の状況下でも、希望を失うことなく、いきいきと生きるアンネの感受性は、読むものに感動をあたえる。
その後、出版されて世界的な大ベストセラーとなったが、いまだに読み続けられている、同世代の著者による、必読書です。

<担当 中田 真人>