市川学園100冊の本の紹介(杉原千畝) 

杉原千畝 ~世界のユダヤ人に「日本のシンドラー」と尊称された元外交官~                           

吉武 佳一郞

 杉原千(ち)畝(うね)は、1900年に岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。1919年に外務省留学生試験に合格し、翌年、早稲田大学高等師範部英語科を中退して中国のハルビンに行き、1924年、日露協会学校特修科を修了した。外務省書記生、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官を経て、1926年に日露協会学校講師に就任した。1932年、千畝は建国された満州国の外交部特派員公署事務官、翌年、満州国書記官に任命された。1934年に満州国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長になると、ソ連との北満州鉄道譲渡交渉で譲渡金を約4億5000万円も値下げさせる功績をあげたが、1935年に依願退官した。その後復帰して外務省大臣官房人事課と情報部第一課に勤務した。1936年にモスクワ日本大使館二等通訳官に任命されたが、なぜかソ連は彼の入国を拒否したので、翌年、ヘルシンキのフィンランド日本大使館に赴任し、1939年にはリトアニアのカウナスに日本領事館を開設するように命じられ、さらに副領事に任命された。カウナスには日本人はおらず、ソ連に関する情報収拾のために開設されたものと思われる。

 1939年にドイツがポーランドに浸入し、これに対してイギリスとフランスが宣戦布告した。戦火が全欧州に拡がると、ナチスはユダヤ人を強制収容所に送って大量虐殺(ホロコースト)を始めた。ユダヤ人たちがナチスの迫害から逃れるには、ソ連を通過して日本経由でオランダ領キュラソー島に行く以外に逃げ道はなかった。ソ連がリトアニアを併合して各国にリトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、1940年7月18日、ポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ人たちは、唯一業務を続けていた日本領事館にビザを取得しようと殺到した。彼らはオランダ領キュラソーを最終目的国とするビザを所有しており、ロシアと日本を通過してパレスチナやアメリカなどに亡命しようと考えていた。千畝がビザ発行の許可を外務省に求めると、旅費と日本滞在費等の所持者に限定せよ、との指示だった。これは発給資格を高くしてユダヤ難民の締め出しを図ったもので、ほとんどのユダヤ人は受給資格を欠いていた。千畝は松岡洋右外相に人道的なビザ発給の許可を要請したが、ユダヤ難民には許可するな、と通告してきた。それは、日本がドイツと同盟関係にあり、ユダヤ人にビザの発給を許せば、ドイツへの背信行為になってしまうからだ。千畝は、ユダヤ難民にビザを発給すれば、外務省を辞めさせられるだろうし、ゲシュタポに命を狙われるかもしれない、また、家族も巻き添えをくうかもしれないなどと悩んだが、ロシア正教の洗礼を受けた千畝は一晩中考えぬいた末、死の恐怖にさらされて「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」「私の一存で彼らを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」という結論に達し、妻からも「貴方の思うようになさって」と励まされて、千畝は自らの判断でビザ発行を決意するに至った。

 一度自分で決めたことは必ずやり通す千畝は、翌朝、ユダヤ人がシベリア鉄道を通って日本に行く許可を与えてくれるようにソ連領事館にお願いし、それから3週間余り寝食も惜しんでユダヤ難民の日本通過ビザを大量に発給し始めた。そんな千畝のもとに、ソ連から退去命令が何度も告げられたが、彼はそれを無視してビザを発行し続けた。その間の発行ビザ数は、番号が記されているものだけで2139枚あった。日本領事館閉鎖日が近づくと、時間稼ぎのために途中からビザ番号をつけることも、発行手数料の受取りもやめ、千畝は職権で領事特別許可証を9月5日のベルリン行き列車の出発寸前までホームで書き続けた。少なくとも2139枚以上の日本通過ビザが出されたが、ビザは家族ごとに発給されたので、6000人以上のユダヤ人の尊い生命が救われたことになる。

 千畝はベルリン訪問後、1940年にチェコスロヴァキアのプラハ総領事館に、1941年には東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館に派遣され、1942年にルーマニアのブカレスト公使館の一等通訳官に就任して終戦を迎えた。第二次大戦後、家族と共にソ連軍に身柄を拘束されて、ゲンチャ捕虜収容所などいくつかの収容所を経た後、昭和22年4月、やっと帰国できた。

 帰国2カ月後、千畝夫婦は外務省に突然呼ばれ、依願免官を求められた。公式見解では、人員整理による自身の依願退職だが、独断でビザを発行した引責解職だと口頭で夫人に告げたという。外務省としては、非エリートでありながら外務省の指示に逆らった千畝が許せなかったのだろう。ベルリンへ向う時に解雇を覚悟していたのに、咎(とが)めがないまま各地に派遣させながら、帰国早々退職勧告をした外務省の仕打ちに夫人は納得いかなかったが、千畝は一言の弁明もせずに勧告を受け入れた。戦後の千畝一家は最初、末っ子の葬式も出せないほど困窮していたが、6カ国語を話せた千畝は、やがて連合国軍東京PX、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局など語学力を活かした職に就いた。1960年に川上貿易モスクワ事務所長として再び海外に出ると、1964年に蝶理(株)へ、1965年に国際交易モスクワ支店代表となり、75歳で退職して帰国した。

 千畝は、「ちうね」と読めない外国人に「センポ」と呼ばせていたため、戦後、ユダヤ人たちが彼を探したがなかなか見つからなかった。1968年、元ユダヤ人難民ニシュリと28年ぶりに再会して「ユダヤ人の命の恩人杉原見つかる」のニュースが世界中に伝えられ、翌年、イスラエル宗教大臣バルハフティックから勲章を受け、1974年、「イスラエル建国の恩人」と表彰された。第二次大戦中、ドイツのユダヤ人虐殺(ホロコースト)中、企業家でナチス党員でもあったオスカー・シンドラーが1,100人以上ものユダヤ人の命を救った。同じ頃、ビザ発給で6,000人以上のユダヤ人を救った千畝は、「日本のシンドラー」と世界中に知られるようになり、1985年、イスラエル政府は、日本人初のヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)を千畝に贈り、翌年、顕賞碑がエルサレムの丘に建立されたが、外務省からの名誉回復がないまま、1986年、86歳で生涯を閉じた。

 1991年、鈴木宗男外務政務次官が千畝の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、「彼の行動を日本人として誇りに思っている」と夫人に伝え、千畝生誕百周年に当たる2000年、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃(たた)えて」と彼の業績を讃える顕彰プレートが外交史料館に設置され、除幕式で河野一郎外相は、戦後の外務省の非礼を認め、遺族に正式に謝罪した。

【センター所蔵の「杉原千畝」関連の本】
①杉原幸子・杉原弘樹:『杉原千畝物語』金の星社、B・1-ス  
②小西聖一:『NHKにんげん日本史 杉原千畝』理論社、B・1-ス

市川学園「100冊の本」 ジャンル:<中学> 歴史・民俗 

「自由への逃走 ~ 杉本ビザとユダヤ人~」 中日新聞社会部編  東京新聞出版局 分類 316-ジ

 1939年~1940年の第2次世界大戦開戦前後、独・ナチによる反ユダヤ政策は狂信的な殺人行為をともない、その支配下の國のユダヤ系市民にとって、身の危険が現実のものとなって来ていた。國を脱出したいと思うユダヤ系住民がやがて多くなってきたのも、この時期であった。

 リトアニアの日本総領事代理の外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)は、外務省の訓令に背きながら、ナチの手から逃れたいユダヤ人に救いの手をさしのべ、日本の通過ビザを大量に発行した。戦後はユダヤ人の救世主とまでいわれることとなった。当時の,複雑な国際情勢,苦難の民族のしたたかな生き方の理解が深まるとともに外交官の職務のなかで、個人の人間性を如何に堅持するか考えさせる一冊である。このドキュメンタリーの舞台になったリトアニア共和国は、13世紀にはリトアニア大公国として東ヨーロッパ一帯を占めていたこともある大国であった。その後ポーランド、ドイツ、ソビエト連邦などと連合・分割・離脱などを経てソ連崩壊時に独立をした。

 <担当 中田 真人>