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2020.05.01理事長メッセージ

理事長からのなずなメッセージ#176 人間としての誠実さとは何か ・・・大平正芳首相から恩師への書簡に思う

yonekichiden2020.05.01
市川学園理事長・学園長 古賀正一

 2月末以来休校が続き、入学式、始業式も出来ない新学期が1ヶ月過ぎました。

教職員は3密回避、在宅ワーク、短時間勤務の制約の中、各学年、各教科ともに、生徒の学習支援に注力してきました。5月7日以降休校延長期間は、緊急事態宣言の推移を見て決断しますが、長期戦を視野に入れ、授業・生徒学習支援に更なる準備を進めています。

生徒・保護者、教職員その他学園関係者の健康安全を第一に、休校期間中の学園の教育のため、最善の努力を尽くす所存です。すでに教科書等必要なテキスト類は生徒のもとに届いており、校長他幹部のリーダシップの下、学年主任、教科主任を中心に、学年毎・教科毎の特色を持ちつつ、遠隔教育の種々な試みをしています。

生徒とのコミュニケーション・連絡・面談、多様なICTツールの活用による課題配信、コンテンツ配信、遠隔授業、さらに生徒のケア(電話、カウンセリング)など工夫をこらしています。生徒自身の自発的企画と運営によるオンライン発表会(オンラインIchikawa Academic Day)も実施されました。第三教育センターもオンライン百科事典(50以上の辞書・辞典)サービス、電子図書館サービス(ディジタル図書の貸し出し)など積極的に行っています。

休校中こそ本学園の建学の精神の「第三教育」を実践するまたとない機会です。その基本は、①規則正しい生活習慣、②自ら計画し学ぶ意欲、③読書、④自分の興味の発見です。

また新型コロナウイルス感染収束後には、教育の新しいツールやコンテンツが蓄積され、新しい教育を生み出す機会にしなければと思っています。生徒達の元気な声があふれる当たり前の日常の学園の来る日を念願しつつ、今できることに各自が注力し、コロナ対策に貢献したいと思う日々です。

さて今こそ国内外ともに政治のリーダシップと政治家の人間性が問われる時です。

鈍牛といわれた哲学者宰相大平正芳内閣総理大臣の人間性あふれる書簡が、1980年5月政局急を告げる解散・総選挙の苦渋の時期に、恩師(元当学園教諭)のもとに届けられました。青春時代の故郷への思い、恩師への敬愛の念とともに、人間としての誠実さとは何かを考えさせられるものです。

過日、小職が学内に配布した長い文章ですが、一服の清涼剤として読んでいただければ幸いです。


1980年(昭和55年)6月衆参同時選挙中に急逝した大平正芳首相から、同年4月28日、5月20日(衆議院解散の翌朝)付けの2通の私信が、当学園元国語科教諭稲田伊之助先生のもとに届けられた。大平首相は、香川県三豊郡和田村(現観音寺市)に生まれ、稲田先生の同郷の後輩で、和田尋常高等小学校での教え子でもあった。私信は、先生の随筆集『あした葉』贈呈へのお礼と読後感が多忙な中したためられ、なつかしい郷里への思い、人間としての誠実さ、恩師に対する敬愛の念は、胸を打つものがある。政治・政治家に対する不信の強い昨今、首相から先生への清涼な書簡全文を紹介し、お二人の生き様に学びたい。

稲田先生は、戦前は尋常小学校準教諭、旧制中学校国語教諭、戦後は香川県丸亀高等学校の主事、教頭を歴任され、1963年に学園の国語科教諭に就任された。学園では名物教員として敬和寮長、図書館長等を歴任されたが、国語教育に抜群の実力を持ち、管理職や事務は大の苦手だったという。先生は、戦前の高等小学校卒業後、農業や鉄工所で働き、学校に通えず、小学校、旧制中学校、旧制高等学校(現在の大学)の教員免許を全て自学により検定試験で取得された。真の実力者であり、まさに第三教育の名人である。異例の75才で学園の教諭を退任、古賀米吉校長(市川学園創立者)のたっての願いで、引き続き非常勤講師として勤務をされ、1988年退職(84才)された。校長逝去後、古賀米吉の伝記の作成を特命され、古い資料をまとめ、生地福岡県及び留学先の英国まで実地調査され、事実を探求され書き上げられたのが、『古賀米吉伝』(稲田伊之助編著)である。

大平首相は、1910年(明治43年)農家の8人兄弟の三男として生まれ、和田尋常高等小学校、旧制三豊中学校、東京商科大学(現一橋大学)と苦学を続け、1936年大蔵省入省。戦後1952年池田勇人氏の誘いで自由党衆議院議員へ。内閣官房長官、外務大臣、通産大臣、大蔵大臣の要職を歴任、また党では政調会長、幹事長、派閥では宏池会会長などを歴任した。1978年12月第68代内閣総理大臣に就任。『楕円の哲学』を持論として均衡と中庸を説き、田園都市構想、環太平洋連帯構想、総合安全保障構想などを提唱した。1979年衆議院選で自民党が過半数を割りこむ結果、党内抗争が激しくなり、1980年5月社会党提出の内閣不信任案に自民党の反主流派が欠席し可決、ハップニング解散となった。衆参同時選挙が5月30日公示、選挙活動中倒れ帰らぬ人となった(享年70歳)。

書簡はこの最も苦渋に満ちた日々の中で書かれたものであった。人柄は、讃岐の鈍牛と言われ朴訥、読書家・勉強家であり、文筆家として文章も多く残されている。言葉を大切に、知性を重んじた経験豊富な政治家、真のステーツマンであったと思う。


大平正芳首相の書簡

書簡は、稲田先生の生い立ちの記ともいうべき随筆集『あした葉』を、大平首相に寄贈したところ礼状(第一信)が届き、更に20日後、衆議院解散の翌朝読後感をしたためた第二信が届けられた。(書簡は縦書自筆、封筒に自宅住所)

第一信

謹啓、時下、愈々御清健に渉らせられ、慶賀の至りに存じます。

偖て、本日は、貴著『あした葉』御恵投に預り、誠に難有、厚く厚くお礼申し上げます。日頃は御無沙汰ばかりで全く汗顔の外なく存じていますのに、お忘れもなく御芳誼を頂き、感激の他ございません。ちょうど明後三十日より九日間北米中南米方面に出向きますので、機中絶好の読物を得ていささか心が躍っております。

何れ読後改めて御礼申上げる所存でありますが、不取敢思わざる御芳情に接した悦びをお伝えいたします。

先は要々御礼まで。御令室様によろしく御鳳声下さいませ。     不一

四月弐八日夜
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下


第二信

前略先般御恵投頂きました『あした葉』、偶々過般外遊中五十八時間機中におりましたので、楽しく読ませて頂きました。

私が驚きましたのは、稲田先生の御記憶の強さ、正確さです。私など幼少の頃の記憶が不確かであるのに比して、先生のそれの正確さには只々舌を巻く次第です。次に用語が平易、表現が簡明、これこそが正に達人だという感嘆の思いで一杯です。それよりも何よりも、先生の人間に対する思いやりや愛情の深さに痛く感銘するとともに、先生御自身の清涼な人生が崇高なものであることに羨望の思いさえ感じた次第です。本当に御恵投有難うございました。

どうかいつまでも御健勝で、われわれ後進を御指導下さいますようお祈りいたします。先は御厚礼まで。     不一

五月二十日早朝
大平正芳拝
稲田伊之助先生  玉案下


(資料)

  1. 市川学園新聞特別号(昭和55年8月20日)・・2通の書簡
  2. 大平正芳戦後保守とは何か;福永文夫(中公新書)
  3. 大平正芳理念と外交;服部龍二(文春学芸ライブラリ-)
  4. .Wikipedia大平正芳、
  5. あした葉(稲田著)
  6. 米寿記念録(稲田著)