第2回 近代哲学の光彩(2026年6月19日開催)
第1セッション デカルト『方法序説』
Aグループ
・最初にこの文章を読んだとき、デカルトの理論は机上の空論であって、デカルトの自己満足なのではないかと考えた。そもそも、自分という存在のみから出発して、感覚に頼らずにどうやって理論を構築できるのか理解できなかった。さらに、デカルトの理論は精神と物体の根拠を神においているのではないか。神の存在はどう示すのかと疑問に感じた。しかし対話の中でデカルトが生きた時代は、神の存在は前提であり、現代を生きる私がデカルトと対等な立場でないことを考慮しなければいけないと気づいていなかった。最後に、デカルトの論理のように実用的か分からない理論を一度確立することによって、グラデーションでさまざまな理論を形成できるようになっただろうなと思った。
・リソースパーソンの先生が最後に言われた「アリストテレス由来のスコラの考え方では既知の説明は可能だが、未知の発見に繋がらないことをデカルトは批判し、方法序説を書いた」ということをふまえると次にはデカルトが批判したスコラの考え方を知りたくなった。神の存在証明など自明の理で語られていたであろうスコラを批判するデカルトは近代哲学の父と呼ばれるように、神が存在する宗教が支配した中世と近代科学による近代との狭間にいるわけで、後の近代科学の基礎に思える四つの規則を述べながら、どのように神の存在を証明しているのかは興味深い。対話では四つの規則と「我思う、故に我あり」にフォーカスして進んだが、デカルトが四つの規則を提唱した後の展開について考えてみたかった。また、可能であれば神の存在証明の部分も含めてテキストになっていると、より面白い対話ができるかもしれない。
・リソースパーソンの先生が最後に言われた「アリストテレス由来のスコラの考え方では既知の説明は可能だが、未知の発見に繋がらないことをデカルトは批判し、方法序説を書いた」ということをふまえると次にはデカルトが批判したスコラの考え方を知りたくなった。神の存在証明など自明の理で語られていたであろうスコラを批判するデカルトは近代哲学の父と呼ばれるように、神が存在する宗教が支配した中世と近代科学による近代との狭間にいるわけで、後の近代科学の基礎に思える四つの規則を述べながら、どのように神の存在を証明しているのかは興味深い。対話では四つの規則と「我思う、故に我あり」にフォーカスして進んだが、デカルトが四つの規則を提唱した後の展開について考えてみたかった。また、可能であれば神の存在証明の部分も含めてテキストになっていると、より面白い対話ができるかもしれない。

Bグループ
・デカルトについて、感覚に頼らないという点から、感覚を視点におくアリストテレスと比較していることや、今のAIについて、AIが順序を踏んで結論へいたるのではなく「どうもこう書いてあるのが多いからこうであるらしい」と決めているの、が現代の最新技術であるはずなのに、確実な起源から順序を立てるデカルトの考え方よりも、もっと古代の人であるアリストテレスの方に似ている、(もしくは誰かが言っていた、三角形の内角の和が180度である理由が、どうもすべてそうであるから、というのと同じように確実な起源からでなくとも、正しい結末に至るのかもしれない)という点が不思議で興味深かった。デカルトの「我思う、故に我有り」という言葉は、デカルトが確実なものとして考えた上に至ったものなのだ、ということが文章から伝わってきて、「デカルトすげえ」ってなった。
・対話のはじめ、デカルトの思考の4つの規則から着眼していった。すると、デカルトの真の目的や、なによりも確実性に重きを置いているものが見えてきた。デカルトの目的には、いろいろな解釈があったが、やっぱり僕は一番単純なものから難しいものへというデカルトの思考回路の出発点を見極めることにあったのではないかなと思った。その結果、デカルトがたどり着いた終着点として「私は考える。ゆえに、私はある」という文章なのではないかと思う。でも、僕的には「考える主体が存在することは確かだけれど主体=私、物体としての私と、必ずしも定義できるのかと疑問に思った。
・対話のはじめ、デカルトの思考の4つの規則から着眼していった。すると、デカルトの真の目的や、なによりも確実性に重きを置いているものが見えてきた。デカルトの目的には、いろいろな解釈があったが、やっぱり僕は一番単純なものから難しいものへというデカルトの思考回路の出発点を見極めることにあったのではないかなと思った。その結果、デカルトがたどり着いた終着点として「私は考える。ゆえに、私はある」という文章なのではないかと思う。でも、僕的には「考える主体が存在することは確かだけれど主体=私、物体としての私と、必ずしも定義できるのかと疑問に思った。
第2セッション ルソー『人間不平等起源論』
Aグループ
・さて”自然状態”とは何か。それはいわば自己充足的な状態であるといえよう。野生人は他者との交流を持たずに生きていた。故に自分以外の他者という存在を明確に知らず、自己中心で自己完結の世界を生きていた。しかし、麦と鉄を知り、他者との交流を知り、そして土地の私有を知った。自らの労働によって得たものだけでなく、もとからそこにあった土地の私有を主張したことは、他者の存在を意識しているため、自己完結ではないという点で、人が自然状態から完全に逸脱したことを意味する。そして、コミュニティが生まれ、その内部では市民法が使われる。だが、コミュニティ間には依然として自然状態時のルールがあるのみだ。他者との交流を得た今、自然状態は自己完結を失い、残るのは自己本位のみである。共同体の間には戦争が生じ、理性はそれを嘆いた。ここで、理性に着目して考えてみたとき、理性は自然状態の対極にあるのだろう。よって、自然状態は情動本位の要素を内包していると考えられるが、戦争、つまり自然状態の暴走が理性を麻痺させるならば、人を完璧へと押し上げた理性は結局、自然状態を上回ることはできないといえる。
・自然状態の崩壊の原因は、主に所有権の登場が占めていると思いました。私的所有物が生まれたことで、それを守るための法、奪われるかもしれないと予測する先見の明、より多くを所有しようと人より力を持とうとする人間、それによる争いや技術の発展など、自然状態とはかけ離れたものが引き起こされています。なぜ所有権が生まれたのかは土地の耕作の始まりで説明がつきますが、土地の耕作を始める人間が存在していたことは長期間の偶然の連続による必然によるものだとされています。私もこの考え方には納得していますが、この耕作については特に成功するまで何度でも試行してよいならば、成功の確率は100%なるという意味での必然でもあると思いました。
・自然状態の崩壊の原因は、主に所有権の登場が占めていると思いました。私的所有物が生まれたことで、それを守るための法、奪われるかもしれないと予測する先見の明、より多くを所有しようと人より力を持とうとする人間、それによる争いや技術の発展など、自然状態とはかけ離れたものが引き起こされています。なぜ所有権が生まれたのかは土地の耕作の始まりで説明がつきますが、土地の耕作を始める人間が存在していたことは長期間の偶然の連続による必然によるものだとされています。私もこの考え方には納得していますが、この耕作については特に成功するまで何度でも試行してよいならば、成功の確率は100%なるという意味での必然でもあると思いました。
Bグループ
・ルソーは「野生人」を設定し、「人間の不平等の源泉はどのようなものか、それは自然法のもとで認可されるか」という内容に対する答えを考えたが、「野生人」は存在し得ないものであり、社会状態は自然状態に包含されるものではないのかと思った。所有が相互依存関係と隷属の鎖を生んだとしていたが、人間を含む多くの動物に家族関係が存在していて、これも相互依存関係を生むことがあるのではないかと思った。また、この本でルソーは私有財産と不平等を定めた法が人類の全体を労働と、隷属と貧困に服したとしているが、ルソーはブルジョアジー革命で平等権と自由権(財産権)を要求するフランス革命に大きな影響を及ぼしているので、上記をなくせばよいと考えていたのであれば矛盾が生じるのではないかと思った。
・「結論を出そう」という一文から全く結論にいかなかった文章で、「なんだこれは」と思ったのですが、これはもしかしたらこの前の話があるのかもしれないと思い、ちょっと『人間不平等起源論』をすべて読んでみたいです。文章量が全体的に多かったというのもあり、自分だけでは読み深められなかった自然法に対して、さまざまな視点を浴びることができてとても楽しかったです。結局、人間の不平等は財産にしろ、感情にしろ「持つ」ところから始まってしまったのかと思うと、本当に不平等をなくすことはできないのだろうなと感じてしまいました。野生人の描写として「奪われたら逃げればいい」というのは全く頭になかったので、これが文明に浸ってしまった自分の表れなのかもしれない、と新たな気づきを得ることができました。
・「結論を出そう」という一文から全く結論にいかなかった文章で、「なんだこれは」と思ったのですが、これはもしかしたらこの前の話があるのかもしれないと思い、ちょっと『人間不平等起源論』をすべて読んでみたいです。文章量が全体的に多かったというのもあり、自分だけでは読み深められなかった自然法に対して、さまざまな視点を浴びることができてとても楽しかったです。結局、人間の不平等は財産にしろ、感情にしろ「持つ」ところから始まってしまったのかと思うと、本当に不平等をなくすことはできないのだろうなと感じてしまいました。野生人の描写として「奪われたら逃げればいい」というのは全く頭になかったので、これが文明に浸ってしまった自分の表れなのかもしれない、と新たな気づきを得ることができました。

第1回 古典との対話へ(2026年5月8日開催)
第1セッション アリストテレス『形而上学』
Aグループ
今回の対話では、文中の言葉や意味・意図の違いをつかみながら哲学の根っこの部分について考えを深めた。”技術(理論)”と”経験”の違いやその優劣のほか、全動物が持つ感覚から人間はどのように学へと結びつけているのかなど、先生のアシストをいただきながら面白い対話を展開することができた。特に、経験を理論に落とし込み、さらに”暇”を持つことができた上流階級がそれらの諸理論を学へと昇華することができたという流れは納得できるもので非常に興味深かった。また当時と今日の”暇”に対する認識の違いにも注目した。われわれ現代人にとって暇はしばしば疎まれるものだが、当時の人々にとってはそれはすなわち”ゆとり”であったと解釈できる。ここに当時から現代に至るまでの時間の価値観の変遷がうかがえ、さらなる対話の余地があると感じた。
アリストテレスの『形而上学』は「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」から始まる。この時点で難しいなと最初読んだ時に思った。読み進めるごとに知識と知恵の違いってなんだろう。本当に経験家よりも技術家の方が多く知恵があると考えているのだろうか、などさまざまな疑問が浮かんできた。一つ一つの言葉に対する感覚をとぎすまし、自分の考えを周りに伝えられたのが非常に良かった。自分が注目していなかった箇所などがたくさんあり、アリストテレスの考えが少し分かった気がする。たった3ページの内容だが、対話しても、対話しても疑問が出てくることに古典的な文章にやはり価値があるなと改めて実感した。
アリストテレスの『形而上学』は「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」から始まる。この時点で難しいなと最初読んだ時に思った。読み進めるごとに知識と知恵の違いってなんだろう。本当に経験家よりも技術家の方が多く知恵があると考えているのだろうか、などさまざまな疑問が浮かんできた。一つ一つの言葉に対する感覚をとぎすまし、自分の考えを周りに伝えられたのが非常に良かった。自分が注目していなかった箇所などがたくさんあり、アリストテレスの考えが少し分かった気がする。たった3ページの内容だが、対話しても、対話しても疑問が出てくることに古典的な文章にやはり価値があるなと改めて実感した。
Bグループ
中2の時に書いたエッセイで経験と知恵にかんして、似た内容を自分で書いていたのを思い出して、興奮しました。アリストテレスと似た思考をしたなんて・・・と。技術や理論に関して現代と比較して、興味深く感じました。これまでは知覚から来る経験を技術・理論へと昇華していましたが、自然の世界から知覚的に得られる経験が少なくなった今日、理論が技術に還元されていっているのではないかと思います。
技術(理論)と経験の違いを見極めた後で、この視点を保ちながら、この文章を読んでいくと娯楽屋学問に関する疑問(それ自体どちらに分類されるか)がたくさん生まれてきて、それに対する答えを出そうと対話が積み重ねられているのが面白かった。僕は気がつかなかっただけで知識+経験=知恵という観点がとても面白くて、細かく言葉の使い分けにも気を使いながら読みたい。
技術(理論)と経験の違いを見極めた後で、この視点を保ちながら、この文章を読んでいくと娯楽屋学問に関する疑問(それ自体どちらに分類されるか)がたくさん生まれてきて、それに対する答えを出そうと対話が積み重ねられているのが面白かった。僕は気がつかなかっただけで知識+経験=知恵という観点がとても面白くて、細かく言葉の使い分けにも気を使いながら読みたい。
第2セッション オルテガ『大衆の反逆』
Aグループ
一つ一つを噛み砕いて文章にしているため、少し癖があり、読むのに時間がかかった。文章は20世紀ごろのヨーロッパを中心に書かれているが、現代の日本の暮らしとも通じる部分があり具体的に落とし込みながら考えることができた。事前に自分ひとりで読んだ際は深く読み切れず対話のきっかけはグループ内の発言からもらう形になった。「群衆」と「大衆」など細かい表現の違いまで踏み込んで考えるとより本文の理解が深まることをリソース・パーソンの先生から学んだ。またこの文章は歴史とのつながりが深く、前提知識をあらかじめ頭に入れておいたほうがより深い理解につながると思う。次回以降意識したい。
常に人は成長を学び求め、努力をし続けなければいけないという思想にはしびれた。大衆が政治的な力を持つことは民主主義の目指すべきゴールだと思えるのに、実際には人類にとっての危機であるという主張はとても面白いと思った。一部の知識人、学びを続ける者と考えない人の二元化はSNSの普及とともに深刻化しているとも思った。
常に人は成長を学び求め、努力をし続けなければいけないという思想にはしびれた。大衆が政治的な力を持つことは民主主義の目指すべきゴールだと思えるのに、実際には人類にとっての危機であるという主張はとても面白いと思った。一部の知識人、学びを続ける者と考えない人の二元化はSNSの普及とともに深刻化しているとも思った。

Bグループ
自分はかなり大衆に迎合する考え方をよくするので、大衆だなと感じさせられました。この文章は、最初は少数者に向けての演説だと思いましたが、本当は大衆に向けてこの現状に気付いてほしいというオルテガの気持ちも込められているのではないかなと感じました、でも大衆は大衆であることを好むので、気づいても大衆であることをやめないのかなと感じました。
この対話では、大衆と少数者について話し合ったが、私は自身が大衆であると感じる時と少数者であるときのどちらもがあるように感じた。文化祭実行委員会委員長として活動しているときには、より良い文化祭を目指さなければならないと常々思うし、そうなるように努力しているつもりだが、しばしば、そんな面倒臭いことはしたくないと言われることがある。なぜ必要なことかは説明しているが、その時に文化祭や実行委員会に対する向き合い方が異なると感じ、少数者であると思う。普段教室で一般の学校生活を送るときは基本的に大衆であると思う。先日の生徒総会の時が非常に顕著で全校生徒の一人として投票するわけだが、決算・予算案に反対するような逆張りは高校からは一掃されていて、誰もが賛成する。そこで周囲に合わせて挙手した時に大衆を感じた。この文章は戦間期に出版されたもので、近代に興味があるためとても面白いものだった。
この対話では、大衆と少数者について話し合ったが、私は自身が大衆であると感じる時と少数者であるときのどちらもがあるように感じた。文化祭実行委員会委員長として活動しているときには、より良い文化祭を目指さなければならないと常々思うし、そうなるように努力しているつもりだが、しばしば、そんな面倒臭いことはしたくないと言われることがある。なぜ必要なことかは説明しているが、その時に文化祭や実行委員会に対する向き合い方が異なると感じ、少数者であると思う。普段教室で一般の学校生活を送るときは基本的に大衆であると思う。先日の生徒総会の時が非常に顕著で全校生徒の一人として投票するわけだが、決算・予算案に反対するような逆張りは高校からは一掃されていて、誰もが賛成する。そこで周囲に合わせて挙手した時に大衆を感じた。この文章は戦間期に出版されたもので、近代に興味があるためとても面白いものだった。
